図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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道標

「……ええと?」

 

私は教本を見ながら今までやってきたこととこれからやりたいことを辿る。この教本も定期的に増補版というか追加冊子を足している。ケト以外の二人はそちらの解読をやりながら予習をしているようだ。まあ、最終的にケトが理解できるレベルにまで落とし込まないとこれらはただの知識にすぎない。技術屋であればそれでもいい。私だって数学の厳密な議論はできないし、今までの流れも結構いい加減だ。しかし、土台がないと技術というのは成り立たない。

 

理論と応用のどちらが先行するかは、時代や分野によって色々だ。例えば焼入れという現象がある。鋼を急冷すると硬くなる、というものだ。鉄器時代にはこの現象は知られており、道具のために、あるいは武器のために用いられてきた。では、この現象が実際にどのようにして発生しているかはいつわかったのだろうか?高温で起こった相転移が急冷によって保持されることで硬化が起こるとした同素体論者(Allotropist)と、浸炭のように炭素が鉄の結晶内に固溶することで硬くなるのだと主張する炭素論者(Carbonist)の争いが1900年ごろで、その後アルネ・ウェストグレンがXRD(X線回折)を使って鉄の相転移を詳しく調べたのが1921年。こう考えると、現象から理論が生まれるように思える。もちろんマクスウェル方程式から導かれる電磁波の存在がハインリヒ・ヘルツによって示されたように、理論を現象によって証明することもある。

 

実験と観察に基づく科学という手法が確立されることで、知識の蓄積は飛躍した。この世界ではまだそれがない。そしてこの手法は単純な思想的な、あるいは知識的なものではない。正確な測定のためには、精密な装置が必要だ。あるいは特別な素材を使った機構が求められるかもしれない。その加工や精錬には相対的にショートカットしにくい技術の積み重ねが必要だ。まあ、それでも私の知識を引っ張ってくれば数百年分短縮することはできるだろう。この世界の技術水準をもといた世界のそれと単純に比較することはできないけれども。

 

微分という手法は、なにか変化が起こる現象を捉える時に有用な道具だ。そして技術というのは自然の素材を使えるように加工する、つまりは変化させるための方法なので必然的に微分を用いることで色々と表現がやりやすくなる。力の変化に伴う構造の変化、温度の変化に伴う導電率の変化、圧力の変化に伴う体積の変化。世界には変化がいっぱいだ。そしてこれらは大抵時間の変化とともにあらわれる。っと、本題に戻ろう。

 

中間目標は微分という概念の確立。その先にある今のところの暫定目標は常用対数の冪級数による表現。知識としてはある。なんなら、それを示すだけであればそう難しくない。

 

$$\lg \frac{1+x}{1-x} = \dfrac{\displaystyle \sum_{n=1}^{\infty} \dfrac{x^{2n-1}}{2n-1}}{\displaystyle \sum_{n=1}^{\infty} \dfrac{\left( \frac{9}{11} \right)^{2n-1}}{2n-1}}$$

 

私はこれを覚えている。導出もできる。ただ、この式を示しただけではあまり意味がない。対数表を作れても、その先がないのだ。冪級数を複素関数に拡張すればローラン展開ができるし、これを使えば例えば正規分布の相補累積分布関数みたいなものを計算しやすくなる。これの何が嬉しいかって?確率論と統計学を組み合わせて、例えばある一定以上の誤差の製品が生まれる確率を推定できる。製品を規格化したい私にとって、これはとても重要だ。あるいは測定で得られた値の差がただの誤差なのか、あるいは重要な意味があるものなのかを区別できる。これで見込みのない方向ではなく、面白そうな現象のほうに実験を進めることができるというのは投入できる資源に対する成果の最大化という側面からは重要なものだ。

 

まあ別にこれはケトが理解しなくちゃいけない範囲ではない。というよりケトは別に対数ですらちゃんと理解する必要が無いのだがなんでいるのだろう。私の授業はそんなに楽しいのかな。まあともかく、基礎を用意すれば、標準正規分布表を作る道を示せる。今はまだ方向すらはっきりとしていない状態だ。

 

ある関数の高階微分を多項式を高階微分したときの振る舞いと比較することでテイラー展開を導ける。つまりは、あと一息といったところだ。これで数学というかこの世界の算学に最低限の道具を渡せる。ここから様々なものが発展できるが、あまり介入するべきではないだろう。私のやり方は最低限の骨組みで作る塔のようなものだ。裾野が広く、崩れることがないような屍の山ではない。

 

ここらへんは倫理、つまりは私の思想の問題だ。私は、可能性が好きだ。だからこそ、私が手を入れてしまうことであり得た発展を阻害したくはない。ただ、それ以上に私は人の幸福を望む。科学と技術と産業はそれを支えることができると信じている。そのために後世への道標を用意しておくことは私の行動理念に叶う。

 

「……もうこんな時間か」

 

思索にふけっていると時間が溶ける。そろそろ、次の授業の時間だ。

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