客人
月が欠け、また満ちた。ケトによれば周期は29日強だという。私の記憶では地球における満月から満月までの期間、すなわち朔望月は29.5日だったので微妙に短いのだろうか。きちんとした測定データが欲しい。
包帯も取れ、痣もなくなり、足も自由に動かせるようになった。思考も日本語と東方通商語*1の両方が入り混じり始めた。簡単な内容なら東方通商語だけで考えられる。
「キイちゃん、ご飯の時間だよ!*2」
私より少し年上の女性の声。この衙堂*3の司女*4をしている方で、ハルツさんと言う。うう。まだ独特な名詞には慣れないな。彼女は私がここに収容された数日前から出かけており、帰ってきたときに見習い司士*5のケトがお姉さんを連れ込んでいたことを知りかなり騒いでいた。
「はあい、わかりました」
少しは馴染んできたアクセントで返す。そりゃあ毎日ずっと話したり書いたりしていれば慣れる。ハルツさんのおかげで俗語やら「一般的な」話し方を学習できたのも大きい。ケトとの学習は系統を重視しているので日常生活に役に立たない言葉の語彙は増えるが、例えば「どつく」に相当する単語を手に入れるのは難しい。一方ハルツさんとの交流では「どつく」と「しばく」の差を実演を交えて学習できる。
蝋板を置き、夕食に向かう。本来は日没前に取るべきで、あのケトと夜空を見た日のあれはケトが食事を作るのを忘れていたということらしい。これについてはあまり言わないでほしいと頼まれたので私は共犯者になっている。
「今日は何を?」
食卓の準備をしているとケトが聞いてくる。私はそれに答えて今日の献立を言うが、うまく日本語には訳せない。たぶんアブラナ科の植物のサラダと、硬めの根菜のスープと、いつものパン。だいたいここでの食事はスープとパンだ。たまに粥。粥を薄めて弱発酵させた清涼飲料水もある。アルコール入りだが、日本の法律では未成年と思われるケトも飲んでいるところを見るとアルコールの害よりも水由来の病原体などのほうがリスクが高いのだろう。かなりさっぱりした味なので私は気に入っている。
食事は
「「「……███████ ████████ ████ █████████*6」」」
私を含めた三人の祈りの声が部屋に響く。私は少しまだこの言語に慣れていない。東方通商語と類縁性があるようで無い。これについてケトはまだ学ぶ必要はないと言っているので、ひとまず目の前の生活にだけ集中するようにしている。
「それでケト、勘定は済んだのかい?」
「今年の収穫は良いようですよ。等級の高い麦が取れています」
結構聞き取れる。ここでの主要作物は麦だ。コムギなのかオオムギなのかはわからないが、イネ科と思われる脱粒性のない穀物だ。脱穀し、
「キイさんは収穫をどう思いますか?」
ケトが私に声をかける。横で見ていただけだが、ケトはこの手の仕事に慣れている。というより司女や司士というのはこの世界での公務員や役人のような立ち位置らしく、計算や代筆や証人や調停なんかを何でもかんでもやるらしい。その代わりに税として上の方に回収される収穫物の一部を給与としてもらえる形のようだ。となると完全に私の存在は負担でしかないか、というとそうでもない。ある程度の自給自足の体制があるので、ひとり増えるぐらいならどうにかなるのだ。それに旅人を泊めたりする施設としての役割もあるらしい。確かにまあ、よその人間を生活圏に積極的に入れたがらないのはわからなくはないが。
「ああ、専門外ではあるから何とも言えないんだけど、北の畑から取った麦のほうがよく熟しているのかな」
「水はけがいいですからね、本当は水路とかを作ったほうがいいのでしょうが」
「ケト、自分が手を出せないのに安易に言うもんじゃないよ」
「わかりました」
ハルツさんの口調や行動はケトに比べれば大雑把にも見えるが、それに見合わずかなり聡明な人物のように思う。学校の成績には現れにくいタイプの賢さだ。少なくとも私を客人として認めてくれている。
「キイちゃんもね、収穫であっても数字だけで見ちゃだめだよ。自分が作ったものをそういう扱いされるのはあまりいい思いされないから」
「勉強になります」
「あと大丈夫かい?悩みでもあるかい?ケトに聞かせられないようなものなら今じゃなくてもいいけど」
「問題ありません。お気遣いに感謝します」
「まあたそんな硬い言葉使っちゃって、驚いたんだよ最初のときに『ボク』だなんて使うから」
「その話はやめてください……」
私ではなくケトの方にダメージが入ったらしい。後で一人称を直そうと思って忘れていたそうだ。まあ、今でも少し気を抜くと「ボク」と言ってしまいそうになるのだが。