衙堂の一室、隣に書庫がある文房とでも言うべき空間で、私は麻紙*1に記された今年の麦の収穫量を手元の蝋板にまとめていく。
「それで、何をしているんですか?」
ケトが私の手元をのぞき込む。揺れる火に照らされて、彫られた文字が踊るようにも見える。
「収穫物の整理」
「そんな変な数字の表記方法で?」
「かなり便利なはずなんだけどな……」
私が使っているのはなんてことはない、ただの
「これで10を表す」
「この右側の文字は?」
「ボ……私が作った」
あぶないあぶない。まだ頭の中の辞書がアップデートできていない。そしてケトに軽く説明するとすぐに理解された。やめてほしい。
「すぐに読めませんが計算では便利そうですね……で、これは収穫量ごとの█████ ███████ですか」
「█████ ███████って?*2」
知らない単語が出てきたらすぐに質問する癖がついてしまった。これもケトは少し悩むだけで説明できるのでなんというか辛くなってくる。少なくとも辞書編纂部が欲しがる人材なのは間違いない。
「……何かを規則を持って並べたもの、です」
「それはこういう上下左右に並べたもの?」
「そうですね。上下なら█████ ██████、左右なら███ ███████です」
ふんふん。行と列みたいな使い分けをしよう。そもそも私の表記方法は下手すればこの世界でまだ誰も使っていないものだ。抽象的思考の賜である。
統計という試み自体はかなり昔からあった。そもそも数学を発展させる原動力の一つとして測量と収穫量の計算があるほどだ。人口比や出生者数・死亡者数に目が向けられるのはもう少し先の近世あたりからとなる。ああくそ面倒なことにこういう事を考えるだけで「君は近世の始まりをいつ頃だと考えているのかね?」という面倒な宗教論争の火蓋が切られかねない。
私が作っているのはヒストグラムだ。それもかなりシンプルなもの。100件程度のデータをまとめて、いい感じに図にする。面白いことに山が二つできた。
「なんとなくやりたいことはわかりました」
「なんでわかるの?」
「これが収穫量で、この高さ一つ一つが畑の区分けを表しているんですよね」
「……うん」
良い知らせはケトの理解力が相当のものであること。悪い知らせは抽象的思考を持つ人物は私以外にもすぐに現れるだろうということ。いや後者も良い知らせか。科学者は知識の公開をモットーとするのだ。
「これ、収穫報告に使ってもいいですか?」
ケトは持っていた巻物を机の上に置きながら言う。媒体だ。年に一回ほど、乾燥した涼しい日に外に出して虫干しをするとともに過去の記録との突き合わせをしたりもするらしい。
「構わないよ。君が書くんだっけ?」
「ええ。昨年までは司女さんがやってくれたんですが今年は一人でやってみろと」
記録について、私はほとんど読めない。聖典語で書かれているからだ。文字体系も東方通商語のそれとは微妙に違う。ギリシャ文字とラテン文字の差、と言えばいいだろうか。同じ字形で別の読みをするのがあるのが腹立たしい。それでも数字の表し方だけは把握しておいた。
「ん、夜も遅いし私は寝る」
「これ、しばらく見てもいいですか?」
私が机の上に置いた蝋板を手に取ってケトが聞く。
「いいよ」
「ありがとうございます」
たぶん自分なりに解読するのだろう。勉強熱心で恐ろしいことだ。
「キイさん、いいですか?」
朝食が終わるとケトが悩ましげに私に声をかけてきた。
「どうした?」
「昨日の……表の絵ですけど」
まあ、グラフという表現はないからこう言うしか無いのか。
「あれね」
「どういうふうに書くか、悩んでいるんです」
「見せて」
文房の机の上には、いくつか試したらしきデザイン案が描かれた書き損じの麻紙があった。
「なかなか真っ直ぐに線を引けないというのはあるんですが、それとは別にこの描き方で問題ないでしょうか?」
図番号がない……ことはさして重要でもないか。
「それぞれの絵が何を表しているかを簡潔に絵の下に示したほうがいい。そうすれば例えば一年前の図と並べたときにわかるようにできる」
このレベルの文章になってくると少し怪しい文法表現になってくるな。
「あとは、横の例えば5、10、15……という場所を太い線にすれば数えやすい」
「それは大切ですか?」
「どうしてそう思う?」
「正しい数字は元の表を見れば求められますよね」
「ああ、うん。君がそう思うなら、私はそれでいいと思う。私が知っているのは数が万を越えるような時の話だから」
「……そこまでのものに関われるとなると、█████ ████████ ██████ ██とか████ ████████ ███ ████████?*3」
ケトが何かを呟いて、私をじっと見る。
「キイさんは、どこから来たんですか?」
「……まだ、話さない」
何回かしたやりとりに、ケトがため息を吐いた。
「まだいいです。いつか話してもらいますからね」
その顔に、私はまた胸が痛む。