「まるで、獣の
軽く壁を叩きながら、冴えない男が言う。
「それ、どういう意味?」
寝台の上で、疲れたように横たわる顔立ちの整った女が返す。
「あちらさんがお疲れでしょうと宿を用意してくれた。わざわざ断るのも失礼になるようにな」
「つまりは、仕込みがあると」
「そういうことだ。まあ、声が通じるほど薄い壁でもないらしいが」
良い材を使っているのだろう。鈍い反響が静かに聞こえるだけだ。これなら向こうから強めに叩いて音が聞こえるかどうかだろう、と男は考える。それでも、一部だけ壁が薄いということは考えられるのだ。用心を重ね、彼は確認を続ける。
「盗み聞きはされていそうにない、と」
「そうだ。まあ、床や天井に耳でもつけられていれば話は別だが、おそらくそういう造りでもない」
「用心深いわね」
「命が惜しければ、君もこういうことに慣れるべきだ」
「『大物顧客』に直接会って来たのよ?もう少し労いの言葉をかけてくれてもいいのに」
物憂げに女はため息をつくが、男は意に介さずに別の壁に向かう。
「その話は、後でゆっくり聞こう。こちらも少し街を回ってきた」
「どうだった?」
「事前に伝えられていた通りだった。まるで正体がつかめない」
一通り確認して満足したのか、男は寝台に座り、声を潜めて話した。
「へぇ。私も同じ感想」
女は男の背中から抱きつくように腕を回す。
「……まずは、そちらの見解から聞こうか」
「こんないい女に肌を当てられて、仕事の話?」
女は男の耳に口を近づけて言う。
「人間の熱に興味が持てなくてな」
「ふうん、嫌なら離れるけど」
「好きにしろ」
「そう、ならこのままで」
女は少し腕を緩める。
「二人で行動していた。『顧客』は司女を名乗った。とすると、『部下』は司士かしらね」
「彼女は衙堂の人間だった?図書庫に通っているのではなかったのか?」
「さあ。初対面の相手に仕事場を明かしたくなかったのかも」
「実際の所、司女だと思うか?」
「それにしては教養は感じられないのよ。最近の本も読んでいないようだし」
「本当に『顧客』なのか?」
訝しむように男は言う。
「靴を履いて、少年を連れた女性なんてそうそういないわよ」
「なるほど。だからこそ、それを逆手に取られた可能性はあるが……」
「考えすぎじゃない?私には油断ならない相手に思えた。たぶん本人よ」
「というと?」
「『部下』のほうはかなりやり手。護衛ってほどじゃないけど、悪くない身体をしていそう。その彼と相当に仲がいいように見えた」
「……仕事の関係では、ないと?」
「勘ではそうね。もっと強い信頼関係がある。ただ、いわゆる衙堂の関係ではなさそう」
女の言葉に、男は眉を動かす。
「ほう」
「文字通りの『衙堂の関係』なのかもしれないわね」
「……どちらにしろ、『部下』はやはり今回の『貿易』で考慮に入れるべきか」
「ええ。それと、『顧客』が一番興味を持ったのは道具だったわ」
「職人か。確かにそういう話も聞いた」
「え?図書庫の書官だという話だったはずだけど」
「不確かだが、文字版印刷を行う最初の印刷機を作ったともいう」
「なるほど、それにしては文字の揃った本の話を出しても動きが弱かったように思えるのよ」
「不確かな情報を元に議論するべきではないな。もう少し固めたい」
「そういえば、そちら側の聞き込みはどうだったの」
女が言うと、男は深く息を吐いて身体を後ろに倒す。女はすっと横に動いて、押しつぶされることを回避した。
「図書庫では印刷物管理局なる部署の宰をしているようだ」
「へえ、どのくらいの大きさの部署?」
「20人ほどだろう。ただ、人の出入りはかなり多いそうだ」
「そんなに人数がいるなら、偽の看板を用いて実際の行動を隠しているのかも」
「可能性はあるな。一方で、商会側の建物は立ち入るのは難しそうだ」
「なにか貴重なものを扱っている?」
「わからん。ただ、出入りする人を見るに職人に思える」
「何を作っているのか、聞き出そうか?」
「寝るのか?」
「そこまでしなくとも、酒場で何杯か飲めば人の口は軽くなるものよ」
「……そうか。任せる」
「苦手そうだものね」
「『適した所に、適した人間を』*1、という言葉を知らないのか?」
「『弱みより逃げるは愚人』*2よ」
「『強みを用いるのが賢人』*3と続くが」
「あなたがそういう人物かどうか、私は知らないから」
互いに顔を見合わせ、男と女はにたりと笑う。
「いずれにせよ、油断ならない相手だ」
「文字版印刷、商会の拡大、そして吹込み炉……。あの長髪の裏で糸を引いているとしてもおかしくはない、けど」
「少なくとも、外れではないはずだが」
「なんでわかるの?」
「
「へえ。相手もやるわね」
「すぐに撒いたさ。ただ、向こうにこちらの動きが読まれているかもしれない」
「気を引き締めます」
女は寝台から立ち上がって言う。
「そうだな。少し休んだら、馴染みに顔を出しに行くか」
「表の仕事もやって、『貿易』もやって。銀片をいくら積まれたってこんな仕事、やるもんじゃないわね」
「愛用の剣をこれ以上血に濡らしたくはないからな、あまり軽はずみなことを言うなよ」
「はいはい」
女は口調は軽く言ったが、目はあくまで今後の仕事の予定を練る真剣なものだった。
活動報告にあとがきというか今まで書いて思ったこととかをメモみたいにしておいたので気になった方はどうぞ。
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