「で、真空はどうなったんですか」
私が顕微鏡を覗く横からケトの声がする。早速語彙を作ってくれているのはありがたい。
「あれを電気素子として使うにはハードルが高いので保留」
「ええ……」
私の記憶が正しければ、真空管の実用化はアーヴィング・ラングミュアによる拡散ポンプの改良があってできるようになったはずだ。ここまでくると、気体は一様な物質ではなく動く微粒子の集合として扱うほうが特徴を捉えやすくなってくる。詳しい説明は省略するが、ビリヤードのように外側から分子を送り込んで、気体の運動方向を偏らせるのが拡散ポンプの原理である。さすがにまだ作れない。いや油があれば
「それでも、実験はさせていましたよね?」
「どれだけ空気が薄いかを調べる方法と、真空中で電流を制御する方法は大体同じなんだよ。測定に注力すれば前者になるし、実用を考えれば後者になる」
電離真空計という、比較的オーソドックスな真空計の原理だ。しかし測定ならまだしも、安定した増幅作用が欲しいとなると問題が山積している。熱膨張率の異なる金属と
「ま、私の知る単純でなかなかいい真空ふいごの設計を渡してあるし、たぶん弄っていれば慣れると思うよ」
ヘルマン・スプレンゲルによる真空ポンプ。S字状の管を使い、可動部分がほとんどない構成になっている。19世紀後半から20世紀初頭の真空技術を支えたポンプであり、電子の発見や電球の実用化、初期の真空管の研究などに用いられた。あ、電子。そうだこれで電子の向きがわかるので、電荷を定義できる。こうしちゃいられない。すぐに実験案を作らねば。
「というわけで、陰極から出てきた電荷粒子が遮られることがわかれば電気の方向というものを定義できるんだよ」
「なるほど……。しかし実験なしにこれをいきなり見せるのは問題ですよね?」
「そうだね……」
ケトに当然のツッコミをされたので私は少し落ち着く。
「結論を知らないということにして、考え方だけを示す……」
「そもそも真空で火花が起こることもまだ未確認ですよね?」
「確かに……」
改めて私の実験計画案を見ると偽装が足りない。もう少し自然な発見ルートを偽装しないと。科学史の知識はこういう時に役に立ったり立たなかったりする。発見ということはすでに起こっているので、その由来を議論してもあまり得るものがないということは珍しくない。まあ、ニコラウス・コペルニクスの天動説はサモスのアリスタルコスが提唱していたモデルの再構成に過ぎないとかいう物語として面白くなくなってしまうことも多いが。実際ニコラウス・コペルニクスのモデルはなにか新しいことを示したかというと微妙だし。
「とはいえ雑にやると後世の人に見破られるし、少し手紙を捏造したりするか?」
「代筆しましょうか?」
「いや、私から口頭で伝えればいいと思う」
知り合いの知り合いから聞いたというやつだ。これが一次史料に使っている聞き取り調査で出てくると色々と投げ出したくなるやつ。まあ古代ギリシアとかのタイトルしかわかっていない断片が多い業界に比べればまだマシかもしれない。
「わかりました。ところで、何を見ていたんですか?」
ケトが私の手元に目を向けて言う。
「ああ、前に買った講師の評判一覧」
「それはわかります。でもなぜ顕微鏡を?」
「彫り方の違いと欠損の状況を確認していた。あとは刷る時の圧力のかかり方の違い。調整が甘いから、結構癖が残っている」
「作成者を探したいんですか?」
「そう。二年かそこらで文字版印刷機をこのレベルで使いこなしていて、文字を見る限り複数の型に由来している文字版を使っている。たぶん、印刷機まで自作しているんじゃないかな」
「そんな事ができるんですか?」
「私がやった」
「……そうでしたね」
「色々あったせいでかなり前のことに思えるけどね」
とはいえ傾向の近い活字がある印刷所はわかるから、そこから探っていけばいい。辿りきれるかって?まあ、少し専門家とのコネがあるので
「で、その印刷した人を見つけてどうするんですか?」
「ちょっとした商売を持ちかける」
「商売?」
「そう。多くの人が文字を読める図書庫の城邦であれば、それなりには需要があるんじゃないかな」
少数であれば蝋紙版印刷でもいいだろうが、1000部ぐらい刷るなら文字版印刷が必要になるだろう。ちょっとした新聞なら、たぶんこれで十分だ。