図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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第14章
文字


『その男性、彼女に魚を売った……』

 

「そこは『男性は』としたほうがいいでしょう」

 

使節官の内定が決まっている先生から北方平原語を学んでいるが、正直言ってかなり難しい。大まかに同じ語族であると思われるので文法的に完全に違う訳ではないが、英語とフランス語よりは離れていそうだ。まあ日本語はこれらからかなり離れているので東方通商語を短期間で覚えた私ならなんとかなるだろう。

 

「古帝国語のまま話しても結構なんとかなりそうですね」

 

ケトは元気だ。いいなぁ。こういうものは話した分だけ成長するので、ある意味頭を空っぽにした方がいいまである。基本的に人間はマルコフ連鎖に基づくパターンで話しているのだ。私だって学術的文章のインプットからそれらしい文章の連なりが出るまで訓練したから一発でそれなりのものが書けるわけで。

 

「そんなに似ているの?」

 

「発音と活用が異なっていますが、単語や文法は大きく変化していないかと」

 

先生が言う。専門用語や技術用語の翻訳なんかも相談しているので可哀想になってくる。まあ、将来的に貿易するならそういう単語も必要になってくるだろうけれども。この図書庫の城邦にいると忘れがちであるが、この世界の識字率は高くない。私たちが向かおうとしている鋼鉄の尾根においては、基本的に文字は書けないし聖典語も東方通商語もまず通じないし、北方平原語も地域によって方言がそれなりにあるようで。その上文字が二種類ある。

 

「それでは先程の文章を書くとこうなります。こっちの文字は覚えなくていいです。まず使われないので」

 

「どういう時に使うのですか?」

 

「儀礼的文書とか装飾としての文字とかですかね……」

 

一つは古帝国語の文字と同じような北方平原語陽文字。一つの文字の中に英語の前置詞や日本語の格助詞みたいなものが含まれている。分離はできるので屈折語ではなく膠着語に分類されそうだ。まあかつての世界の言語学の知識をこの世界で使うのが適切かは知らないが。

 

で、これは複雑で面倒なので簡略化されていった。こうしてできたのが陰文字である。ある種の二元論的なネーミングだ。これは音を中心に書き、必要に応じた表義要素とでも呼ぶべきものをつけることで同音異義語を回避するやり方だ。そんなうまく同じ音の単語を区別できるのかと思ったが、ある種の「性」を定義することでどうにかしているらしい。うーん複雑。まあここらへんは単純に読む分にはあまり気にしなくていいし、最近は表義要素の省略も多いらしい。

 

「こういうところだとたぶん文字版印刷で作った教本は威力を発揮するよな……」

 

「かもしれませんね。とはいえあそこは紙にできるような植物もあまり多く生えませんし」

 

「寒いんでしたっけ」

 

「ええ。冬は水が氷になり、一面が白色になります」

 

私はそこまで寒いところの出身ではないので雪景色は年に一回見るか見ないかだったが、気象条件が揃えばそれなりの低緯度である新潟でも大雪が降るのだ。そして天の北極の角度と移動にかかる時間からなんやかんや計算すると目的地の緯度はスカンディナヴィア半島南部とかバルト三国のあたりのはず。どうせ行くなら簡単でもいいので六分儀を持っていきたいな。電波の受信ができれば時差も出せるし。さすがに月の位置を求めるために三体問題に取り組んだり衛星による食を揺れる船から観測するよりは実用的だろう。クロノメーター?真空管のほうがたぶん楽。

 

「よし、行くのは夏にしよう」

 

となるとあと半年ぐらいか。こういうのはちゃんと予定を立てておかないと先延ばし先延ばしになっていくのだ。

 

「それでしたら涼しくていいでしょうね」

 

そう言うのはケト。交通が発展すれば避暑地としての需要が出てきそうだ。今のうちに見晴らしのいい土地の権利でも買っておくかな。いつ回収できるかはわからない。

 

「間違いありません。冬は商人たちも寄港を避けますからね。そもそも海に氷が張って港が動きません」

 

「それほどか……」

 

まあでもロシア帝国やソビエト連邦が不凍港を求めて南下した事を考えると、緯度に見合った気候ということでいいのだろうか。木造船しかないのによくまあそういう場所に繰り出すなとも思うがそういえばヴァイキングはアイスランドに植民し、グリーンランドを開拓し、ヴィンランドに到達しているんだった。案外死を厭わない試行錯誤を重ねることができればできるものなのかもしれない。怖いので私は安全関連の準備をきちんとしてから行こう。

 

「しかしいいところですよ?しばらく住んでいた時期がありますが、魚は美味しいですし、長い冬に作られる様々な細工は美しさと実用性を両立させています」

 

先生がしみじみと言う。

 

「なるほど。鋼鉄の尾根と呼ばれるのはやはり鉄や鋼の生産が多いからでしょうか?」

 

「確かにあそこは良い鉱石を産し、鍛冶も多いというのはあります。古帝国の支配外だったので剣を鍛える術が残ったのもあるでしょう。ですが……」

 

「ですが?」

 

「あそこは食べるものが少ないんですよ。飢えるよりは戦場に行くほうがいいというのもあって」

 

「ああ……」

 

スイスにおける傭兵のようなものだろう。となれば、それなり以上の軍事力があるわけだ。戦争における技術者の責任とか面倒なことを考える事態にはなってほしくないな。

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