図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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写真

「どうぞ」

 

ケトが出した椀を受け取り、暗い目でこちらを見ながら薬学師のトゥー嬢はずずずと音を立てて茶をすする。

 

「……上手くなったな」

 

「お陰様で」

 

少しだけ表情を柔らかくするトゥー嬢と、少し自慢げなケト。

 

「ケトくんはトゥー嬢にこういう事するの?」

 

「ええ、前に通っていた時から何度か」

 

「ふうん」

 

面倒な感情をちょっと脇において眼の前の相手を観察する。過労だなこりゃ。睡眠不足もありそうだ。

 

「話せそうですか?」

 

「ああ……」

 

彼女は何回か瞬きをすると、深く息を吐いた。

 

「久しぶりに面白かったよ。配合はそこに書いてある」

 

そう言ってトゥー嬢は物が雑多に置かれた台の上にある紙を指した。

 

硝膠(コロジオン)を乾燥させないようにする配合が問題だった」

 

「……あれは湿った状態で使うもので」

 

頼んでおいたのは湿板のはずなのだが?

 

「わかっている。そこまでは百回も試せば行けたが、あれでは使い勝手が悪い」

 

「それなら最初から膠を使う方法を説明するべきだったかな?」

 

「試したさ。だが硝子(ガラス)板から膜を剥がすには硝膠(コロジオン)が良かった」

 

なんでフィルムの一歩手前みたいなものができているんですかね?私がかつていた世界だと試行錯誤を重ねて二十年か三十年かかっていたはずなのだが。

 

「……恐ろしい出来ですね」

 

「起きている現象の説明があったからな。あとは結果を変えない範囲で弄ればいい」

 

私はもう半ば呆れたようになって紙に書かれた手順を辿っていく。これは現像で、こっちが定着。おっと、私の知らない単語が混じっている。

 

「これは?」

 

「海藻灰だ。硝基質が含まれているので追加したがこれで光に当てる時間を短くできた」

 

「あーなるほどなるほど。塩気基質(ハロゲン)の一種がたぶん混じっていたんだな」

 

おそらくは(ヨウ)素が混じっていたのだろう。化合物の安定度の違いで露光時間が変わったりするのだ。詳しくは知らないが。

 

「……その分析は他の人に任せるよ」

 

「というよりこれも別にあなたがやる必要はなかったわけで」

 

「まあ、これは私の意地のようなものだよ。少ししたら撮ってやる」

 

「どのくらいの間、光を当てます?」

 

「私の脈で40と言った所」

 

トゥー嬢は心拍数低そうなので一分弱かな。静物や肖像用になら十分だ。

 

「曖昧ですね」

 

「水時計でも使えば良かったのかもしれないがな」

 

「揺れる(おもり)を使う方法もありますが」

 

「なるほど……。まあ今日ぐらいの陽なら特に問題はないはずだ」

 

トゥー嬢は残っていた茶を一気に飲み、立ち上がった。

 


 

「こんなふうに映るんだ……」

 

窓から映る景色が白黒反転で写った硝子(ガラス)板を覗き込んでケトが言う。

 

「触るなよ。硝酸銀が手に付けば半月は取れない黒染ができる」

 

すっと顔を硝子(ガラス)板から遠ざけるケトを見ながら、トゥー嬢は手袋をつける。正しい。還元の過程で発生する銀の微粒子が肌にこびりついて黒くなるのだ。

 

硝膠(コロジオン)に銀、硝酸、塩などを混ぜたものを塗ってある。配合は暗所で行う必要があるのは当然だな」

 

黒く染められた厚手の革と布を継ぎ合わせたマントのようなものを頭からかぶってゴソゴソと作業をしながらトゥー嬢が言う。

 

「……よし。ケト君はそこで。キイ嬢はもう少し左に寄ってくれ」

 

私とケトは指示に従う。撮影可能範囲はそこまで広くないと思われる。映るのは上半身だけだろう。

 

「あとは透玉(レンズ)の前の仕切りを外せば硝子(ガラス)板の上で銀基質が純化されるわけだ。っと、失礼」

 

私とケトの後ろにトゥー嬢が立つ。

 

「……あなたも映るんですか?」

 

「なにか問題が?」

 

「いえ」

 

「ならいい。前を向いて、透玉(レンズ)を見つめるんだ。瞬きをしないように」

 

トゥー嬢が立っている場所から糸を引くと、なにから木がぶつかる音がした。たぶんある種のシャッターだろう。

 

頭の中でこの後の工程を考える。光が当たることである種の連鎖反応が起き、ハロゲン化銀は還元されて銀の微粒子となる。この微粒子を目に見えるスケールにするには還元環境において微粒子を核として銀の結晶を成長させればいい。ここで還元が強すぎると露光していない場所でも結晶ができてしまうので難しい。これには時間や薬品の濃度が問題になるのだが、ここの部分をトゥー嬢は実験を重ねて解決してしまった。この方法では炭酸ナトリウムで塩基性にした硫酸鉄(II)水溶液を使っている。この工程が現像だ。

 

その後に定着としてハロゲン化銀を取り除く作業が入る。この時に使うのがチオ硫酸ナトリウムだ。これは銀をあまり溶かさず、ハロゲン化銀を溶かす。この工程が終われば感光性物質はなくなるので明るいところで作業ができるというわけだ。あとは薬品を洗って乾かせば写真の完成である。

 

なんてことを考えていると時間が来たらしい。トゥー嬢がまた別の糸を引くとまた音がした。暗箱の中で透玉(レンズ)硝子(ガラス)板の間に仕切りが降りたのだろう。

 

「ここから先の工程はまだ文章にできるほど洗練できてはいないが」

 

そう言いながら彼女はまた作業をする。液体を注ぎ込んだり流しだしたりできる専用の箱か何かがあればこの作業はやりやすいんだがな。

 

「これを紙に焼き付ける方法もあるんだろう?」

 

「卵白を硝膠(コロジオン)の代わりに使います。詳しくは覚えていないのですが」

 

「まあいい。他の人にやる時にはそこらへんは多少ぼかして伝えよう」

 

なんだかんだでトゥー嬢は私という人間を知っていて、それを程々に隠そうとしてくれている。そもそも彼女自身がそういう喧騒を嫌う身ではあったはずなのだが。申し訳ない。

 

「っと、できたぞ」

 

水を切った硝子(ガラス)板をトゥー嬢は私とケトに見せる。

 

「綺麗にできますね」

 

「最初に人間を写す時に失敗しないよう、何度も試したからな」

 

「……あれ、ということは僕たちは硝子(ガラス)板に写された最初の人たち、ということですか?」

 

「そうだが?」

 

トゥー嬢は当然のように言う。私の歴史だと最初に写真に写ったのはルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの撮影した銀板写真(ダゲレオタイプ)の靴磨きと磨かれていた人だったかな。ここまで狙った鮮明なものではないはず。

 

「あとはこれをもう一度別の硝子(ガラス)板に焼いてもいいが、ただ写っているものを見るだけであれば黒い布か何かの上に置くだけでいい」

 

感光した部分は光を通さないので透かすと黒く見えるが、反射光であれば白っぽく見える。なのである意味ネガとポジが黒いものの上に置くだけで反転するのだ。

 

「……こんな簡単に、写し撮れるものなんですね」

 

ケトが言う。多少粗いものの、確かに三人の姿が硝子(ガラス)板にはできていた。

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