図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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窒素

鶏卵紙はそれなりに長く使われた写真紙で、卵白をバインダー層として使うものだ。バインダー層と言うのは感光とかで色が変わる成分を含んだ層のこと。あまり感度は良くないので、これ自体を暗箱に入れて撮影するのには向いていない。だから一旦感度の高い硝子(ガラス)板で撮影してから紙に印画するという手段を取る。この時に光が当たる部分が黒くなるので、白黒が反転した硝子(ガラス)板を使えばもう一回反転させることになってちょうど見た通りの陰影ができるのだ。

 

「というわけで、これを」

 

そう言って薬学師のトゥー嬢は私とケトに紙で包んだ鶏卵紙を渡す。この世界最初の人物写真(ポートレート)だ。

 

「知り合いたちに話したらどうやら色々試しているらしくてね、硝酸の需要が高まっている」

 

「それは面倒だな……」

 

「硫酸みたいに便利な方法は……その様子だとあるにはある、か」

 

「実用的ではないけれどもね」

 

硝酸の作り方の一つは二酸化窒素を水に溶かすことだ。問題は二酸化窒素をどう作るかである。酸素と窒素はそう簡単には反応してくれない。もし反応するなら化合物が大気中にふよふよしているはずである。方法の一つは放電を起こすことで、これは落雷の時にも起きる反応である。ただ、必要な電流がかなりのものでしっかりとした発電機が必要になってくる。ビルケラン=アイデ法と呼ばれた方法だ。高低差が大きく水資源が豊富なノルウェーでは電気代が安かったのでこういう事ができたが、効率は後に出てくるハーバー=ボッシュ法に比べて桁違いに悪い。なのでノルスク・ハイドロは価格競争に敗れて重水生産とかをしていた。

 

「そうか。必要なものは?」

 

「大電力か、高温を作る事ができればあるいは……」

 

フランク=カロ法はカーバイド、実際には炭化カルシウムを窒素と反応させてカルシウムシアナミドを作るものだ。とはいえカルシウムシアナミドから硝酸までの経路は少し面倒じゃなかったかな。そもそも炭化カルシウムを作るためには炭素と生石灰をかなりの高温で熱する必要がある。記憶が正しければ、電気炉の熱から生まれたある種偶然の産物だったはずだ。一応温度的には専用の炉があれば電気がなくとも不可能ではないだろうが。あとこれはアセチレンの合成にも繋がるので有機化学工業をやるなら触っておきたい。公害が起きないようには注意しないといけないが。

 

「難しいな」

 

「このままだと生物を使うのが悪くない選択肢になるぐらいだ」

 

「生物?」

 

「あー……豆の類を植えると収穫量が良くなるという話は?」

 

「どこかで聞いたな」

 

その程度には有名、と。単位面積当たりの収穫量をちゃんと計算したわけでは無いが、都市人口やらなんやらから雑に推定するとこの世界の農業生産量は案外悪いものではないように思える。少なくとも私の記憶にある古代から中世にかけての飢えと隣合わせという恐怖はあまり見られない。この地域が比較的豊かな穀倉地帯だというのはありそうだが。

 

「あれは硝基質を大気から作り出す小生物が植物の根にいるからという話があって」

 

「……本当に、キイ嬢がどこから来たのかを考えるのは無駄に思えてきたな」

 

Contagium vivum fluidum(伝染性生液)、もといウイルスの発見者の一人であるマルティヌス・ウィレム・ベイエリンクが確か単離に成功したんじゃなかったっけな。藍色細菌(シアノバクテリア)を使ったバイオリアクターとかが使えるんじゃないだろうか。実際の設計は全くわからないけれども。ここらへんの分野はどこにやらせるのがいいのだろう。感染症理論から発展させるとなると医学であるが、自然の観察という方面からすれば自然学か?衛生問題系統だと場合によっては統治学案件かもしれない。新しい学問分野を既存の体系に組み込むのは面倒なのだ。

 

「キイ嬢?」

 

「ああ、少し考え事を」

 

「……かつていた場所にでも、思いを馳せていたか?」

 

心配そうにトゥー嬢は言う。ああ、たぶん想像しているのとは違うタイプの思考です。そういえば家族や友人に会いたいという郷愁はあまり沸かないな。まあ帰れる道筋が全くないし、このままだとこの世界に骨を埋めることになることぐらいはわかっているし別に嫌ではない。待て。転移時に私の身体を構成していた元素はもともとこの世界になかったものだよな。別にそれがどうということはないのだが保存則に馴染んだ脳が非科学的だと文句を言う。うるせえ科学の定義をちゃんと持ってきやがれ。少なくとも既存理論の盲信は科学ではないぞ。

 

「少し似てはいますが、違いますね。それに私にとっては、ここはもう故郷みたいなものですから」

 

「ならいいが。……そうか、そういえば写し撮ったものは人の一生よりも長く遺るんだろうな」

 

「実際には劣化するので適切な保存をしないと」

 

基本的に暗所で保存しておけばそれなりには保つが、それでも脱色は避けられない。早いうちにデジタルスキャンかけなきゃ、とリサーチ・アシスタントらしい思考が出てくる。

 

「適切な保存をすれば、保つと」

 

「……ええ」

 

「そうか。それはいいことを聞いた」

 

そう言って、写真を見ながらトゥー嬢は微笑む。こういう表情は珍しいな。たぶん彼女の過去に関わることだろう。父親の話だろうか。まあ、別にそれは個人のものだ。わざわざ首を突っ込む必要もないだろう。

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