図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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旅券

「元気しているかい、二人とも」

 

白髪を後ろで結んだ書字長が笑顔を浮かべて言う。会うのはなんだかんだで久しぶりだな。

 

「それなりに。そちらは?」

 

私はそう言いながら差し出された巻物を見る。丁寧な装丁は、作成者がそれなりの地位を持っていることを暗示させるわけだ。

 

「仕事が減ったよ。まったく、こんな老婆にこれ以上作業をさせるというのなら色々と言いたいことがあったのだがすっかりその必要もなくなってしまって」

 

活版印刷で一番割を食いそうな人物の一人であるが、それでも許してくれるというのはありがたい。

 

「開いても?」

 

「もちろん」

 

少し複雑な結び方をしてあった紐をほどいて、中を見る。

 

「それにしても綺麗に写すものだね、まるで本人が紙の中にいるみたいだ」

 

顔写真と、その下の文章。これ自体は身分証明書である。なんと図書庫の城邦の頭領、大図書庫の庫長、そして大衙堂の大衙堂長の連名でキイという人物の保証と便宜を願うものだ。そして危害を加えた場合には覚悟しておけよとの一文。それが東方通商語と聖典語と北方平原語陽文字で書かれている。ロゼッタストーンみたいなものなのでこれなら北方平原語陽文字が読めるぞ。

 

「……本当に、ここまでしてもらってすみません」

 

「なあに、久しぶりにいいものを作った自負があるよ」

 

手書きではあるが、丁寧に揃った文字がそこには並んでいる。まあ今使われている印刷機の文字版のデザインは彼女によるものだから見慣れている雰囲気があるが。

 

「将来的に、こういうものを持ったこの城邦の人々が海を超えて行くことになりそうですね」

 

「それでも手書きの紹介状はなくならないさ。偉い人が書いたからってその人を知らなけりゃただの紙だよ」

 

まあ確かにそうなのだが。地元の有力者からの紹介が遠くの街のよく知らない偉い人の保証よりも強いというのはある意味では当然ではある。日本国旅券を持っていれば大抵の先進国で面倒事を回避する助けになっていたような世界とは違うのだ。

 

「ああ、それにちょいと確認しなくちゃいけないことがある」

 

「……といいますと?」

 

「名前が書いてないだろう?」

 

改めて確認すると変な空白がある。ああ、確かにここに名前が入りそうだ。

 

「ああ、そうですね」

 

私はそう言って、固まった。どう書けばいいんだ?

 

「……キイさん?」

 

ケトが私の耳に口を近づけて、小さく囁く。

 

「一般的には親の名前や職人として一人前と認められた時の工房の名前をつけるんですが……」

 

「今回であれば……どうするの?」

 

「司女のキイ、とか印刷物管理局のキイ、とかでしょうか。ただ、後者は管理局の局長を辞めると当然名乗れなくなりますが」

 

この身分証明をある程度の期間使うことを考えると、やはりちゃんとした名前が欲しいところだ。どうしよう。

 

「そういえばケトくんはどうするの?」

 

「司女ハルツの徒弟、ケトとなります。本当であれば父の名前を取るべきなんでしょうが……」

 

そういえばケトの生まれはちょっと面倒なんだったな。まあこの世界で孤児は決して珍しいものではないらしいが。子を生んだ後に熱を出して死にかけた女性の話を街で聞いたことがある気がする。雰囲気からして産褥熱なのだろう。手洗い自体は宗教的清めの一環として受け入れられる余地があるから、あとは微生物によって伝染症が媒介されることを示せばいい。統計学が使えるかな。っと、本題ではない。

 

「なるほど。他に人名に由来しないものは?」

 

「身体の特徴や出身地、あるいは家で継いでいる職業を名乗ることがあります」

 

「……図書庫の城邦の、キイとか?」

 

「出身地かどうかはともかく、はい。ああでもこの紹介状に頭領の名前があるからそれでもいいかもしれないな……」

 

「で、どうするんだい?」

 

ひそひそとした私たちの会話をしっかり聞いていたのか、書字長がこちらを見て言う。

 

「図書庫の城邦の司女、キイとします」

 

「ようし。自分で書くかい?それとも私がやろうか?」

 

「書いてもらっていいですか?」

 

「もちろん」

 

私は巻子本を書字長に返す。

 

「あと、キイ嬢はケト君のほうに名前を書いてくれよ」

 

「どうしてですか?」

 

「勤め先の証明が必要だろう?」

 

「ああ、なるほど」

 

印刷物管理局局長補としてのケトの身分証明には私のサインが必要なのだ。考えてみれば不思議な気分ではある。印刷物管理局はそこまでしっかりした組織ではない気がするので、そこの代表がした保証や署名がどこまで役に立つのかわからない。

 

「印刷物管理局の印があるのですが、それを捺したほうがいいでしょうか?」

 

「……いいね。あの本の最初にあるやつだろう?」

 

「ええ」

 

「なら一緒に印刷した本を持っていくといい。開いて同じだとわかれば書を読む人であれば気がつくだろう」

 

「なるほど」

 

そういえば印刷された本はこの城邦の外へと輸出されてもいるんだったな。そろそろ海賊版やらの問題が生まれる頃なので対処しないと。しかし城邦の外で起きた問題に印刷物管理局が手を出すだけの道理も必要だ。図書庫の名前だけでゴリ押すわけにも行かない。ここらへんは外交案件になるだろうから、頭領府外交局ができたらそこ経由で色々やってもらおう。

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