「来て頂いてなんですが、まだ実用には程遠い出来と言えるでしょう」
商会の建物が並ぶ一角、実験工房の職人が言う。
「通信が気象条件によって変化するというのは?」
「あくまで仮説の段階ですが、可能性は高いかと。上手く行けば船が嵐を避ける助けとなるかもしれません」
「それは興味深いね。ところで、真空発振管が使えるようになったと聞いたけど」
「いいえ、今のところ連続稼働で20刻*1も持ちません。今後改良を重ねれば伸ばしていけるかと思いますが、今はこの工房から持ち出せるものではありませんね」
そういう話をしながら、私は実験中の送信機を眺める。真空引きされている
「この銀色になっているのは
水銀の落ちる真空ふいごと容器の間の内側が銀色になった部分を指差して私は聞く。
「たしかそういうものです。これを焼くと暫くは良い送信ができますが、いかんせん作るのに大電力が必要です。この送信機自体もそうですが、ともかく電気が足りない」
「そうすると相当な額が更に必要になるな……。ところで、今使っている熱極の素材は?」
「南方で取れる釉薬素材を。薬学師たちが分析に取り組んでいますが、未だ主基質の特定には至っていません」
候補が多すぎるな。アルカリ土類金属の酸化物、あるいは炭酸塩とかかもしれないがまあ動いているので今のところはいいだろう。
「その釉薬は……」
「我々は海の商会ですので、ある程度以上の量を手に入れるのはどうしても難しいものになります。一部の商者は山渡りたちに声をかけているようですが」
たぶん山師のようなものだろう。当たれば大きいだろうが、職人の口ぶりからするとあまり信用はされていないらしい。
「わかった。今度北の方に行くから、できるだけ鉱物を集めてくる」
「ありがとうございます。それと、できれば簡単な送信機と受信機だけでも運んでいただければと」
「というと?」
「もし強い送信ができるようになれば、キイ先生が向かおうとしている鋼鉄の尾根にまでも届くかもしれませんので」
「あれ、私は行き先を言ったっけ?」
「噂になっていますからね、有名な話ですよ」
「あまり話題にはされたくないんだがな……」
私は少し苦笑いをする。ゴシップからは逃げられない。
「おかえりなさい、キイさん」
「ただいま……」
私は帰ってそうそう新聞を読んでいるケトが座っている寝台に突っ伏す。
「なにか面白いことがあった?」
「印刷機に関する記事があります」
「……読んでもらっていい?」
今日は疲れたのでさすがに目を動かしたくはない。
「いいですよ。『近頃増えたる並び文字、縦横揃いし墨痕に、読めぬ文字などありはせず、これが文字版印刷物』……」
ケトのこういう声はよく通るので本当にいい。こうやって聞くとかなりリズムに気を配っていると感じられるな。東方通商語での韻文は聖典語のそれに比べれば難しいというのを前にケトが言っていたのを思い出す。
「……目新しいことは言っていないね」
「それはキイさんが印刷機についてよく知っているからです。そもそもこの報を見るまで文字版印刷を知らない人もいたようですし」
「へえ」
「少なくとも、そう書いてありますね」
読者からのご意見コーナーのようなものまで用意したらしい。常連の投書人が出てくる日も近そうだな。
「……それで、キイさん」
「なあに」
「何があったんですか?実験工房に顔を出すと言っていましたが、何か大変なことでも」
「……大変も大変だよ。私の知識を超え始めている」
まず電波気象学が形成されつつある。まだちゃんとした温度計や気圧計の目盛りもできていないんだぞ?無茶苦茶な技術史ルートが生まれつつある。面白いと言えば面白いが、私の知識が使えなくなっていく。いや、普通にそれはいいことか。ゲッターも、陰極に使う素材も、私はアイデア程度しか言っていない。それを形にしたのは数十人の職人たちだ。効率的に実験を繰り返し、改良を重ねている。
「怖いと思うなら、それは傲慢ですよ」
「どういう意味?」
「全てをキイさんがどうにかできるほど、ここの人たちは愚かでもなければ怠惰でもありません」
「それはわかっているけど、それでも数月もしないでここまでのものができるの?」
「物事は進む時は一瞬ですからね」
まあ確かに今までなかった人間関係と圧力が新しいものを一気に生み出す例は記憶にあるが、それは例外というべきものだったはずだ。
「私がいた場所と、何が違うのかな……」
「そこでは、あまりこういう事は起きなかったのですか?」
「……起きる時は起きたけど、起きない時は本当に何も進まなかった。栄華を誇った支配者が消え、数百年の間人々が盲信に縛られていた時代があった」
中世ヨーロッパは全体としてみればそう暗黒でもないし、宗教が科学の発展を妨げたというのは一面的な見方で率直に言ってしまえば誤りなのだが、もちろん時代と地域を絞ればそういう環境は珍しいものではない。別に惑星の軌道を正確に予想したところで、農奴が食べるパンの量が増えるわけではないのだ。それならば美徳である勤勉を刷り込んだほうが社会はよく回る。その社会で農奴がどう扱われていたかはわざわざ言うまでもないだろうが。
「ここだってそうですよ。古帝国の崩壊から長い間戦乱の時代が続きましたし、それ以前は諸王が飽きることなく争いを繰り広げていました。図書庫が平和な時代まで生き残ったのはほんの偶然に過ぎません」
「……案外、その偶然が私がいた場所とこことの違いなのかも」
翻訳の過程で過去の哲学者の見解が神聖視されるようになったのはあるだろう。ある意味で、この図書庫の城邦では古い学者の意見は古典となることができるのだ。新陳代謝は保存と同じぐらい、科学技術の発展に欠かせないのだ。