図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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瓶詰

私とケトが住んでいる部屋の竈には鍋が一つしかないので、色々持っていそうなトゥー嬢のところまで行く。

 

「あとでちゃんと洗ってくれよ」

 

「わかってます」

 

そう言いながら私は温まりつつあるお湯の中に料理がいっぱいに詰まった口の狭い瓶を入れていく。濃いめの味付けの煮魚だったり、野菜の炒めものだったり。一応栄養バランスは考えているつもりだが、ビタミンはたぶん多くが壊れてしまっているだろう。硝子(ガラス)はそれなりに高価だが、(かめ)に食品を保存する例は結構見られる。ただ、長期保存の方法としては塩漬けか酢漬けか発酵か、あるいは珍しいが麦蜜に漬ける例もあるといったところでまだ殺菌瓶詰めはなかった。そういうわけで作ってみようとなったのだ。

 

「で、これは?」

 

訝しげにトゥー嬢が聞く。

 

「船の旅での予備食料ですね。保存ができるかどうかの確認も兼ねています」

 

お湯が沸騰したので、手を火傷しないようにトングのようなもので瓶に柔らかい木でできた栓をゆるくして湯煎をする。本当はコルクを使いたかったのだが、コルクガシはどうやら生えていないようだ。異世界の生物種分布は本当によくわからない。一応私がいた世界では地中海一帯に生えているような植物だったのだが。

 

この後は熱膨張が起こって内部の空気が抜けたところで栓を押し込み、冷ましながら蝋で密封。ニコラ・アペールが編み出したという食品保存方法だ。ルイ・パスツールとクロード・ベルナールによる低温殺菌の研究から半世紀ほど前のはず。芽胞を持った細菌がどれだけいるかはわからないので、もし開けてみて危なそうなら処分しよう。一応圧力容器に入れて120度ぐらいに加熱できるようにしたり、何回か繰り返し加熱と放置を繰り返すことで厄介な微生物に対して滅菌を行うこともできるが、正直面倒なのでそこまではしない。一月の船旅の間でやるおまけの実験のようなものだ。あとはケトがこの一帯の馴染んだ味を欲しがった時用。

 

「そこまで念入りに密封する必要は?」

 

「外部から食物を腐らせる悪い微小生物が混入することを防ぐためです」

 

「ああ、内部にすでに入り込んでいる分は今煮殺されている、と」

 

なんか一瞬で微生物による腐敗理論を理解してきた。一応共和制ローマ時代のマルクス・テレンティウス・ウァッロが微生物による感染症を唱えていたが、あれはまあ直感が偶然当たったものであってちゃんと検証された仮説ではない。

 

「そうなります。ところでトゥー嬢は医学についてどれほど知識が?」

 

「子供時代に家庭教師から色々と聞いた程度だ。修めたというほどではない」

 

「複数の地域で同様の症状を持った患者が発生したとします。可能性は?」

 

「可能性は大量にあるが、まず前提としてその患者は普通であれば健康だと思われる状況にあるとしていいか?例えば飢餓に陥っているわけではない、と」

 

「ええ」

 

「腐った食物、鉱毒、淀んだ空気、あるいは伝染り狂い?……まあ、キイ嬢の言う微小生物によるものというのはいくつか聞いたことがあるが。悪い水というやつだな」

 

伝染り狂いというのはパニックみたいなものかな。悪い水、というのはたぶんアメーバ赤痢であったり住血吸虫症とかであったりだろうか?

 

「いえ、そこまでわかっているなら十分です。あまりそういう医学の話を聞く機会がないので」

 

知っている範囲に気軽に聞ける医師もいないし、医学の専門書を読んでみても用語が難しくてよくわからないのだ。ただどうにも精神的アプローチを中心としたものが体系化されている印象はある。

 

硝子(ガラス)の瓶を使うとなると、酸で痛みそうだな」

 

「配合を調整してそこらへんを解決したいのですが、原料の調達が問題ですね」

 

「そしてその原料を基質に分離し、組み合わせによって起こる特性の変化を整理する……」

 

「数年か十数年かはかかるでしょうね。私だって全ての答えを知っているわけではありませんし」

 

「普通の試行錯誤であればすでに各地で行われているだろうが、秘密の公開と資源のやり取りの実現でどこまで変化するか、か」

 

そう。別にこの世界の人が新しい組成の探究に手を抜いていたとは言えない。もちろん知る限りでそういう技術開発に大規模な資源を突っ込んでいるのはあの長髪の商者ぐらいしかいなかったらしいが、多くの職人が自らの仕事の中で改良を繰り返してきたという話は聞いている。ただ見る限り、問題はいくつかあった。

 

一つは素材。輸入してまで利益の出る製品は少なく、それなら近場で手に入る素材を原料にした方がいい。あるいはすでにある程度出来ているものであれば輸入するのも悪くはないが、これは生産者が技術を秘匿する傾向を生んだ。まあ誰が悪いとかいうよりも、それぞれが自分の生活と職を守るために行動するとこうなったというだけである。ここらへんはトゥー嬢が構築している化学分析技術を組み合わせれば色々できそう。

 

あるいは市場。海洋交易は色々と行われてはいるが、私の知っている水準に比べれば非常に可愛いものだ。買い手がつくともわからない商品を輸出するのは難しいので、一部のお得意様からの受注生産や近隣の需要を満たす程度の生産しかしないのは理にかなっていると言えるだろう。図書庫の城邦ではかなり色々なものが売られているが、まだ足りない。通信技術の発達がここらへんを解決してくれるといいな。

 

他にも研究方法というのがあるが、これはかなり厄介だ。対照実験とか統計的分析とか、アドホックな仮説に対する消極的反対とか。科学史を少しでも齧っていれば、こういう科学哲学で扱われるような「科学」ではない手法で様々な法則や定理が導き出せたことは言える。まあ総称としての科学なんてものはメタヒューリスティクスの一手法に過ぎないのでそんなムキになって最適化する必要もないと言えばそうだが。

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