寝台に倒れ込んだ。脚が痛い。ハルツさんもケトも平気な顔をしているが、一月前まで歩けなかったしそれ以前も引きこもって本の虫になっていたような人間にとっては結構な距離であった。正直に言って、この世界の人間に体力で勝つことはできない。日頃から10km程度動き回ることが珍しくない人たちを相手にするのが悪い。
まあ、仕方がない。二人にはまだ怪我が治りきっていないかもしれないと言ってはあるので夕食まで少し休むことにする。と言っても体感で一時間ぐらいだと思う。この世界に時計はない。いや、ケトに聞いたところ都市の天文観測施設には水時計はあるらしい。都市の話は語彙不足でまだ聞けていないが、どうやらかなり大きい都市が近くにあるらしい。まあケトというかこの世界の基準での「近く」など何も信用できぬ。歩いて三日とかを普通に「近く」と言いかねない。
肉体的なものだけではなく、精神的な疲れもある。衙堂でお世話になっている女性ということで勝手に何かを察してくれた大人たちと違って、子供は無邪気に語りかけてくるのだ。それもわらわらと。まあ、東方通商語の練習にはなった。子供と話すのは脳を馬鹿みたいに使うので疲れる。楽しくないわけではないが。
「キイちゃん、いいかい?」
扉の向こうからハルツさんの声がした。
「はい、どうぞ」
「大丈夫かい?ここに来たときは結構な怪我してたっていうからさ」
「今は痛みもなくなりました。心配してくれてありがとうございます」
「……なら、いいさ。さて、あんたに聞かなくちゃいけないことがある」
どきりと心臓が跳ねるのがわかる。こういう人が、こんな言い方をするのはたいてい良くない時だ。
「あんたがどっから来たのかはあえて詮索しないさ。こんな手足の皮が柔らかい人間にとって、慣れない言葉での生活は大変だとは思うからね」
肉体労働をしなくていい階級と言うのは、多くの時代でほんの一握りだった。節くれだったわけでもなく、マメが少しできてしまうほどのこの手も、この世界では場合によっては貴族のような生活をしていたことを意味してしまう。
「ただ、誰もあんたを探しに来ないってところを見ると……まあ、辛いことがあったんだ、と考えるしかなくてね」
確かにここで生きるのは楽ではない。本に溺れてキーボードを叩いていた頃に比べれば身体への負荷は大きいと言えるだろう。寄生虫か何かの問題でお腹を壊していた時期には本当に死にたくもなったが、まあ今では一時の気の迷いだったと言えるのでいいとしよう。
「はい」
「ケトに言いたくないなら、私にでもいいさ。悩みがあるなら言っとくれよ」
「今は日々を生きるのでただただいっぱいで、まだ悩みを持てるほどではなく……」
「そんならいいけどさ。で、ケトとはやったのかい?」
一番基本的で単純な動詞の過去形。意味というか用例はケトがいくつも挙げれるほどだ。ただまあ、その動詞がある行為についての直接的な言及を避けるために用いられているのであろうことぐらいは推察できる。
「……私と彼は、そういう関係ではないですよ」
「本当かい?」
ハルツさんが近所の厄介なおばちゃんモードに入ったような気がしてならない。
「そもそも、ケトはそういうことをしてはいけないのでは?」
「バレなきゃいいのさ。街じゃ司士と司女の関係はそういうもんだってみんな知ってるよ」
悪く笑うハルツさん。聖職者とか公務員とかどう分類するべきかは知らないがここらへんは緩いのだろうか。
「……私は司女ではありません」
「なあに、私が任ずりゃあ司女見習いよ」
うーん。雑だけど人情に厚い方なのだろうか。ありがたくはあるが、どこまで受け入れるかも問題だ。戸籍制度のようなものはあるらしいが、そこに名前を乗せるのは衙堂の仕事で名簿の管理もここで行われている。つまりちょちょいっとすれば人を増やすことぐらいはできそうなのだ。
「良い言葉だとは思いますが、しばし考える時間を頂けないでしょうか」
「ん。まあそりゃそうよね。ごめんねキイちゃん、こんな話をいきなりして」
「……ええ。ところでこの機会に質問しますけど、ケトの見習い期間が終わったら彼はこの衙堂で働くんですか?」
「それがいいんだけどねえ、あの子は██████ ████ █████████████に行かせようと思ってて」
「██████ ████ █████████████って?」
「ああそうかい、こいつはどう説明すりゃいいかね……」
ケトと違ってハルツさんはこういうのにあまり慣れていない。というか、たぶんケトが異常なのだと思う。
「█████████████っていうのは家がずらーっとあって、岩でできた高い壁がどかどかどかーっと見渡すかぎりに……」
言葉を総合すると、城壁に囲まれた大きな街といったところだろう。
「██████っていうのは、ほらうちにある本入れとく部屋のでっかいやつよ」
図書館とでも訳せばいいだろうか。
「で、私はケトをそこに送って、勉強させて、できたらもっと上の方に行かせてやりたいのさ」
たぶん留学のようなものなのだろう。図書館の街と呼ばれているとなると、学問都市だろうか。継承問題に巻き込まけれなければいいが、とか焼かれなければいいが、といったどうでもいい心配をしてしまう。
「もしキイちゃんも司女になりたいなら、行く?」
「お金もかかるでしょうし、そんな……」
「あのねぇ、ケト見てて自信なくすのは仕方ないけどキイちゃんも相当なのよ?あの描き方をケトに教えてくれたんでしょ?それに聖典語だって勉強すればすぐ読めるわよ。あとお金については衙堂の方がどうにかしてくれるって」
「えっと、少し待ってくださいね」
たぶんヒストグラムのことだろう。私の知識は確かに偏ってはいるが、ある程度はこの世界でも使える。
いや、もっと正直に言ってしまおうか。
適切に使えば、ろくでもないことを引き起こせる知識が私の頭の中にはある。クーデターの手法や市民革命のメカニズムといった直接的なものばかりではない。例えばプロテスタントの拡大を引き起こした、知識を急速に広めるための活版印刷という技術について。厳密には反カトリック運動の一つであるルター派と総称される一派が活版印刷の影響もあって規模を拡大し、国家間の緊張も相まってカトリックと対抗できるだけの勢力に成長したと言うべきだろうが。ともかく権力を握るための重要手段である情報の統制を崩す方法について、私は知っている。もちろん普通の地球の現代人であれば活版印刷という単語は知っていてもその具体的方法までは知らないだろう。何の因果かこれでも工学を齧った技術史の専門家なので、活字合金から製紙までの基礎知識はある。それだけの知識のほんの一部を使えば、たぶん、司女としてこの衙堂で暮らしていくことはできるだろう。ただそれは、なんというか、違う気がする。
「喋りすぎちゃった?」
「……ケトにも、話していいですか?」
「当然。まあゆっくり考えなさいな。どうせ行くとしても冬だから」
そう言ってハルツさんは部屋を出ていった。取り残された私は、ひとまず脚をマッサージすることにした。