図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

180 / 365
腐敗

女性が大きな巻き貝を持って船の先頭に立ち、貝の頭に口をつけると独特の音が鳴る。それと同時に係柱から縄が外され、ゆっくりと帆が下ろされる。

 

「大丈夫?」

 

私は少し気分の悪そうなケトに言う。

 

「ええ……まあ……」

 

船酔いだろう。確かにこういう乗り物に乗る機会が少なければ起こって当然か。

 

「キイさんは……平気そうですね」

 

「まあね」

 

子供の頃から車の中で本を読んでも特に問題なかったのだ。今更船程度ではあまり問題はないはずだが、あまり調子に乗りすぎないようにしないと。振動の周期が独特なのでそこで引っかかる可能性がある。

 

「もし辛いようなら寝てしまいなよ」

 

「寝れますかね……」

 

吐いてはいないので、まあそこまで深刻ではないのだろう。

 

「大丈夫か?」

 

後ろから声がしたので振り向くと乗組員の一人が小さな杯を持って立っていた。

 

「貨人さんにはよくあるやつだ。水で薄めた薬酒だが、少しは楽になるはずだ」

 

「ありがとうございます……」

 

そう言ってケトはゆっくりと口をつける。匂いが独特で、私の知識では分析しきれない。まあどうせ芳香族化合物だろ。

 

「新鮮な水は今しか飲めないからな」

 

「ああ、腐るのでしたか」

 

「そうだ。炎酒を混ぜることもあるが、あまり良くはない。どうしようもなくなれば海水を煮て湯気から水を得ることもできるが、それだけの燃料を載せていることはまずないし、積み荷を使い切ってしまっては契約が成り立たない」

 

「なるほど……」

 

会話の途中でケトを見るが、少し落ち着いたようだ。

 

「……もし、水を腐らせなくする薬のようなものが作られれば需要はあるでしょうか?」

 

「難しいところだな。薬の量や味の問題もある」

 

まあそうだわな。というかすぐにこういう話ができるあたり、学があるというか取引などに長けているのだろうか。

 

「わかりました。最近とある薬学師が色々と新しいものを作っていまして、そのなかにそのような働きをするものがあれば、と」

 

「ただこの船みたいな半月を超える旅をするのであれば、酒の倍程度の値段であれば買うだろう、と考えるね」

 

市場価格設定のアドバイスまでもらえる。なんだ、やけにいい人だな。

 

「夕前に食事があるから、その時には動いてくれ。それまでは海を見るぐらいしかやることが無いだろうがな」

 

笑う船員に合わせて私も笑顔を浮かべる。ケトの表情も少し柔らかくなっていた。

 


 

夕食は生野菜が多かった。たぶん腐りやすいものから食べていくということなのだろう。

 

「……何やってるの?」

 

同じぐらいの年齢の少年となにやら話し込んでいたケトに声をかける。

 

「聖典語を教えています」

 

『どうも、色々教わっています』

 

少し癖があるが、案外綺麗な聖典語の発音だ。

 

『ああ、なら私も聖典語を話したほうがいいかな』

 

基本的にこういう会話は全員が理解できるものにするべきである。なので国際学会の後の飲み会では英語で議論せねばならない。まあ翻訳アプリが発展していた時代であったからスマホ片手にではあったがなんとかなった。

 

「ん、そんなら東方通商語でお願いしやす。そちらのほうがわかりやすいんやろ?」

 

あ、こっちのほうが訛りがあるな。私の脳内で使っているのが図書庫の城邦で話されている東方通商語の一方言なのでどっちが訛っているかはちゃんと定義できないものであるというのは置いておくとして。

 

「東方通商語はどこで学んだの?」

 

「南の方出身でして、そっちの人と話しとると自然に、というわけで」

 

慣れれば聴き取れるが、少し集中する必要がありそうだな。私は腰を下ろしてケトの隣に座る。

 

「なら、なぜ北方に向かうこの船に乗っているの?」

 

「爺ちゃんとここの船長が知り合いなんよ。せやから海の向こうを見てこいーって船乗り継いで、ってとこやね。あと数回こっちと北の方行き来したら戻って海路を継ぐと思いやす」

 

知ってる東方通商語ではくっついている単語が分離されていたり、少し珍しい言葉遣いがされていたりと面白い。

 

「なるほど。聞くだけではわからずとも、見ればすぐに理解できるものも多いからね」

 

「そういうこと、ってなわけで、ええと、キイ先生?」

 

「……あまり呼ばれ慣れないな。どうしたの?」

 

「ケトに聞いたんやけど、色々面白いものを船に持ち込んでいるんって本当なんか?」

 

ふうん、案外ケトはそういう事を隠さないのか。少しケトの髪をわしゃわしゃと乱す。

 

「っ、キイさん」

 

「ケトくん、どういう事を話したの?」

 

「ええと、岩の種類を見たりとか、遠くとやり取りしたりだとか……」

 

「そうそれ、やり取りってどうやるん?船の間で色旗振って、なんてもんとは違うん聞いたけど」

 

「……まあいいや。明日の昼にはやるから、その時には見せてあげる」

 

「やったぁ!」

 

こうやって好奇心旺盛な若い世代がいるというのはいいことである。船の民と呼ばれる人たちの文化的背景はあまり掴めていないが、別に孤立的というわけではないらしい。むしろこの世界で一番交流範囲が広く、海の繋がる場所ならどこにでもいて、多くの品物を扱うというのであるから文化的タブーで陸に上がれないぐらいがないとバランスが取れない。まあ、歴史というのはたいていバランスなんて調整されていない酷いシステムなのだが。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。