「うーん」
蝋板の計算を消して、私は日の沈んで間もない夕暮れの空を見る。橙色から藍色までのグラデーションが綺麗だ。
「何やっているんですか?」
船にも慣れてきたらしいケトが言う。もう航海は折り返しを過ぎて、針路は北東を向いている。
「太陽が南に来た時の高度から緯度を求めようとしているんだけど……計算が厄介で」
南中高度は緯度と日によって変わる。今は夏至の前なので、同じ場所から観測するのであれば次第に一番高い点は上がっていくわけだ。この2つの成分を分けようとすると天文学と球面三角法の面倒な計算が始まる。いやこの程度で音を上げると本職の人にとやかく言われそうではあるが。
「……僕も少ししかわかりません」
「そう。まあなら記録だけ残しておくか……」
途中計算は蝋板で行い、結果を紙に書いている。紙の枚数はそれなりにあるが無駄遣いできるほどのものではないので。
『どうだ、星見は』
すっかり馴染みになった夜番の人が声をかけてくる。船民語もこれぐらいなら聞き取れるな。
『良くない。日の高さから南北方向の位置を出すには私の力は足りていないようだ……私の言葉は通じているか?』
専門用語は基本的に一対一対応なので、基本的な文法を覚えてそこに接続詞で不格好に繋いだ説明を入れるだけ。これでも結構辛いのではあるが。
『ああ。船旅の始まりで語れなかった██*1とは思えないな』
そう言って笑う夜番の人。聞き取れない単語があったが、まあ別に侮蔑とかではないだろう。ケトの方を見ると少し笑みを浮かべている当たり、たぶんそう問題のある言葉ではないはず。
『それはよかった。……ここ数日、風が強いと感じているけど、どう思う?』
緯度と経度を距離として出して三平方の定理で速度を求めると、図書庫の城邦が面する内海を出港したときに比べて倍とまではいかないが数割速くなっている。
『実際北の風がこの███に██を████くれる*2』
『……もう少しゆっくり言ってもらっても?』
「この季節には北向きの風が吹くそうです」
少し気を抜くと知らない単語が出てきてそこを気にしてしまいわかるかもしれない単語でも聞き取れなくなってしまう。ケトの通訳と、夜番の人がもう一度ゆっくり話してくれたのもあって理解は出来たが。
『ところで、そろそろ水平線が見えなくなるがいいのか?』
「あ」
私は立ち上がって六分儀を構える。まずは天極三星を鏡で探して、と。正直慣れないとかなり難しい。2枚の鏡を通しているので上下は変わらずにすんでいるが、望遠鏡を組み合わせるとなるとそこらへんが面倒そうだ。鏡を大きくしないと。
『……ありがとうございます。忘れていました』
とはいえ測定した角度はほぼ予想通りではあるが。きちんと船は目的地へと進んでいるようだ。
『████みてもいいか?*3』
夜番が私が手にしていた六分儀を指して言う。
「触りたいそうですよ」
「んー……」
少し悩むが、まあ別に最悪壊れてもあまり問題はないしいいか。
『良いですよ。使い方はわかりますか?』
『大まかには。見ていたからな』
少し持ち方を指導すると、すぐに慣れたようだった。やはり筋肉がちゃんとついていると揺れないし、しっかりと水平線の方を確認できるんだな。私はちょっと重めの六分儀に振り回されて、少しだけ視界に入った水平線と目的の星とかの接触を頑張って観測するのが限界だ。
『これは数か?』
『はい。……少し待ってください』
そういえば数字についてはやっていなかったな。
「ケトくん。船民語で数字はわかる?」
「ええ」
そうケトは言うと、暗くなりつつある空が照らす目盛りを指さして説明を代行してくれた。
『……これからは難しい話になるが、船民語でわかるか?』
『頑張ります』
私は座って言う。少し揺れが強くなってきた。
『これがあれば、孤島……広く海に囲まれた島にたどり着けるか?』
『島が見えるまで狙った場所に近づくことができるほど、細かい高さを測るのはまだ少し難しいでしょう。しかし、鳥などを見れば多少は……』
『確かに見える必要はないな。鳥がいれば数日分の航海で進む距離ほどに近づいていることがわかる』
『図書庫の城邦で出される波を受け取る機構がまだ弱いですが、受け取ることができれば半日ほどの距離はいけるでしょう。この観測用の道具自体を改良できれば、より短く……。計算の上では、陸が直接見えるほどの正確さで出せるでしょう』
『それはいいな。それなら海沿いではなくとも、より危険とされていた経路を進むことができるようになる。この旅も、十日は短くなるだろう』
夜番は言う。かなりの短縮だな。っと、そろそろ目を凝らさないと周囲が見えなくなってきた。
『もう夜も更けていますし、そろそろ眠らせていただきます』
『そうか、良い夢を』
私は夜番の言葉を聞きながら甲板の下にある空間に行く。