夕食後、明かりを持ってケトは私の部屋に入ってきた。
「念のため確認しますが、キイさんの育ったところでは夜中に男性を自分の部屋に呼ぶことが特別な意味を持っていたりしませんよね?」
あー、うん。あると言えばあるし、ないと言えばない。難しいところだ。ケトが言いたいような、まあ相手を誘うような文化について私はとんと不得手だ。男子率の非常に高かった高校時代にはなんか崇められる存在だったし、女性が過半数だった大学生活では同級生との飲み会よりも学会後の懇親会のほうが出た回数が多い。大学院にいたのはヒトという枠で括ると問題があるような存在が多数派だったのでここでの議論には含めないほうがいいだろう。まあ異性を夜に部屋に誘うのは、確かにそういう意味だと捉えられてもおかしくはなかった。背景や前提の条件が面倒だったけれども。
「違うよ」
「……そうですよね。それで、お話というのは」
「色々あるんだけどね。まずはハルツさんから聞いたんだけど、街に行くんだって?」
「あの█████████……」
ケトが明らかに面倒そうな感じに肩をすぼめた。面白いジェスチャーだ。
「█████████って?」
「いや……まあ、ハルツさんには黙っていてくださいよ?未婚の年老いた女性に対して使われる言葉で、これをハルツさんの前で言ったら……どつかれます」
ふむ。スラングの一種か。こういう語彙は間違えて口に出さないようにしないといけない。
「それで……おおかた、キイさんも一緒に行かないかという話になったんでしょう?」
「よくわかるね」
「ハルツさん、ああ見えて街に知り合いが多いんですよ。あそこで学んでいた時のつながりらしいですが」
「ああ、私が聞きたいことの一つはその街について。大まかな人口とか、存在する施設とか……」
「少し古い内容ですが、ある旅人が書いた本だと確か人口が……三十万か四十万だったかな、壁の内だけで*1」
「それは、大きいの?」
「世界最大の水の街だと言われています。並ぶのは、世界でも十あるかないかだと思いますよ」
湾岸都市か。ますますアレクサンドリアめいているな。それより人口四十万で世界最大級の都市ということは、そこから世界人口を割り出せないだろうか?とはいえ私の記憶は断片的だし、そもそも元データがあまり信用できなかったりするからな。それでも億のオーダーだろう。いやここは本題ではない。
「█████████████は周りから切り離された、支配する力を持った地域で……」
ハルツさんの説明が旅人目線であるとすれば、ケトの説明は辞書や百科事典に近い。頑張って聞き取った内容と私の知識を総合すると、古代中国の
「██████ ████ █████████████の██████は、学び、書き、読み、調べる人たちのための書庫を含む巨大な建物です。一度は行ってみたいところですね」
私の知るアレクサンドリア図書館めいて入港した船から本を回収して写しを作ってその写本の方を返すとかいう野蛮なところではないらしい。もう少し穏健だ。とはいえ本来の意味は文字通りに倉庫らしい。つまり……直訳に近い訳を当てるのであれば、「図書庫の城邦」といったあたりだろうか。都市の名前が図書庫とは、なんとも興味がある。っと、本題からズレてきているな。
「その図書庫の城邦に、行くの?」
「……学ぶかどうかはともかく、一年程度であれば行くのもありだと思います。衙堂の庇護の下で学ぶとなると、さすがに生涯を捧げることになりかねないので……」
「そういう人生は嫌?」
「僕は詩が好きなんです。ただ、詩を書いて生活できるほどの収入を得ることのできる人はほんの少しだけ。だからせめて、色々なものを見たいとは思うんです」
「……本題に入っていい?」
「……はい。やっと、話してくれるんですか?」
「そう。私がどこから来たのか、今から説明しようと思う」
「いいんですか?」
「かまわないよ。ただ、秘密を守るという約束をして欲しい」
「……質問をします」
「いいよ」
「もし聞いたら、貴族の戦いに巻き込まれるとかないですよね?」
「その程度で済めばいいね」
「その、程度?」
「うん。世界が二つに分かれて、滅ぼし合うような大戦になるかもしれない。一握りの商人が、それ以外を支配することになるかもしれない。代わりに、子供があまり死ななくなって、誰もが本を読めるようになる」
「面白そうですね」
「これを聞いて、それが感想?」
「そんな変わる時代を詠むことができるなんて、素晴らしいと思いませんか?それに誰もがそれを読めるのでしょう?」
ケトが少し恥ずかしさが混ざったような顔で笑う。
「わかりました。誓いをしましょう」
「どうやって?」
「これでも司士の見習いです。色々あるのですよ。少し待ってくださいね」
「本当は多くの証明者の前で行うのですが、ここでは二人だけということで」
そう言ってナイフを取り出したケトは、自分の左手の人差し指を軽く切る。肌に滲む、赤黒い血。
『我は汝の秘密を知り、其の秘密を守る』
聖典語だ。意味は分からないが、ゆっくりとした響きが部屋を満たす。揺れる影と相まって、頭がどこかぼおっとする。
『此の誓い破りし時の贖いは、我が生命を含む汝の求む汎ゆる物と、破滅の運命也』
幾何学模様が描かれた麻紙に、血が落ちて、ゆっくりと滲む。
『神々の名と……汝の信頼を以て、我は誓いに縛られん』
そう言って、ケトは私の顔の前に切られた指を出した。
「舐めてもらえますか?」
私は伸ばした舌を、掬うように動かした。口の中に広がる鉄の味。
「これで契約自体は終わりです。普通はこの紙を証明のために残すのですが……どうします?」
「念のため、燃やせる?」
「わかりました。もちろん、この紙がなくなっても血で繋がった縛りが解かれることはありません」
ケトはそう言って笑い、ランプで紙の端に火をつけた。ゆっくりと火は広がっていく。たぶん儀式として完成度が高いからだろうが、私のほうがケトに縛られたような気がしてならなかった。