図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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疑問代名詞

部屋に入ってきた少年は木の盆にのせた椀とパンらしいものを持っていた。椀は素焼き(テラコッタ)で、酸化鉄の作る赤い色が見える。パンが黒いところを見ると、精白はされていないのだろうか。そもそもこれが小麦からできているかどうかもわからないのだけれども。

 

「██ ████ ██ ███████ ████ ███ ██████ ██ ████ ███*1

 

「私が何言ってるか、聞き取れない?」

 

私も少年も、同じような表情をしていたに違いない。

 

「███ ██ ██████ ███████████ ██████ ██ ███*2

 

少年が話す言語がおそらく変わった。アクセントなのか、母音や子音のあれこれなのかはわからないがなんとなく雰囲気が違う。少なくともコミュニケーションを取ろうとはしているし、複数の言語が存在することを知っている、と予想できる。

 

Can I talk with you if I use English?(私が英語を使ったら君と話せないかな)

 

「████ ████████ ██████ ██████████*3

 

Nun...(ええと……) ich kann nicht verstehen, was Sie sagen.(私には君が何を言っているかわからない)

 

今度の言語は単語一つ一つが長いし、少年も言いにくそうだった。あまり慣れていないのかな。私もドイツ語に詳しいわけではないからあまりいい発音をしていなかったとは思うけど。

 

悩ましげにこちらを見つめる少年と、難しい顔で少年を見つめる私。どうにかしてコミュニケーションを取ろうとアプローチをしてくれているのはわかる。私も知っている言語で話をしようとしたが駄目みたいだ。そもそも英語が通じない時点で私が知っている言語が分かる可能性は著しく低いのだが。さて、これで私の話せる言語のストックが切れた。いや、「Я не говорю по-русски.(私はロシア語を話さない)」とか、正直文法も怪しいが「Non possum loqui latine.(私はラテンを話せない)」とか、言うことはできるが言う意味がない。ちなみにこういう文章のストックなら結構ある。

 

「███ ████ ████████ ██ ████ █████████*4

 

少年はそう言って、私の前に盆を出した。

 


 

言語をゼロから学ぶためには、語彙を採集しなければならない。そのために最も一般的な方法は、「これは何ですか?」という疑問文を手に入れることだ。言語学的に言うのであれば、疑問代名詞を特定することが必要となる。

 

子供に囲まれた青年がいきなり帳面にめちゃくちゃな線を描くと、周りで見ていた子供たちが「hemata?(何だ?)」「hemata?」と口々に叫んだ。これは西暦1907年8月、日本領樺太南部の漁村において東京帝国大学の学生であった金田一京助が行った樺太アイヌ語の語彙収集の一幕である。

 

これによって樺太アイヌ語における名詞の採集が始まったというのは有名な話であるが、じつはこれには前提がいくつかある。金田一はその前に子供のスケッチをしており、それを見ていた子供が部位の名詞を口にしていたこと。樺太アイヌ語の語彙はなくとも、類縁のアイヌ語の知識と疑問文「hemanta?」を知っていたこと。そして数日の間謎のお兄さんとして近所をぶらついていたこと。

 

今の私には何もない。さて、どうしようかな。

 


 

私が悩んでいると、少年のほうが動いてくれた。パンを一口大に小さくちぎり、スープにつけて食べる。そうしてもうひとかけらパンをちぎって、それを私に差し出した。意味はわかる。食べ方を教えると言うよりも、毒味の意味合いがあるのかもしれない。確かに目の前の食べ物で私が重篤なアレルギーを起こす可能性はあるし、何らかの理由で私にだけ毒となる成分があるかもしれない。ただ、そんなことを気にしているストレスのほうが明らかに健康に悪いだろう。軽く煮られた根菜と葉菜が入っているスープにひたしてから、少し硬い手触りのパンを口に入れる。

 

スープのキノコか何かによると考えられる旨味成分も、パンの酵母と乳酸菌が混じったサワードゥのようなもので発酵させたことに由来すると思われる風味も独特のものだ。慣れればなかなかイケる味ではあるが。ただかつて食べ慣れていたものと比べるとアクが強いのは間違いない。

 

素焼きの椀から木の匙でスープの実を食べる。少年の視線は私の一挙一動を見逃すまいと観察しているようだ。まあ確かにどうやって食べるかは文化や風習によって左右される。私の食べ方からどこの出身かを探ろうとするのは悪くない方法だ。ただ、問題はそれが成功する可能性はあまり高くないように思われるということだが。

 

少し落ち着いて匙を置くと、少年がパンを指差した。指差す、という表現は不適切か。右手の人差し指と中指を伸ばし、それ以外を曲げる。ポーランド式の敬礼のときの手の形と言えばそういうマニアにはわかるだろう。それでパンを示すようにして、ゆっくりと少年は言葉を紡いだ。

 

「██ ██████ █████*5

 

言語コミュニケーションの構築において、名詞の提示は一番シンプルな方法だ。ただ問題は三つの単語のどれが「パン」を表しているかわからないこと。

 

「██ ██████ ███████*6

 

椀の中に置かれた匙を、同じように指して言う。違うのは一番最後の単語に当たる部分。

 

これは……パン、です

 

発音がどこまで正確かもわからない。アクセントも声調も、日本語になれた耳で聞き取って日本語に慣れた口で話したものだ。

 

「██、これはパンです」

 

嬉しそうな表情。よかった、笑顔、より厳密には顔の力を抜いて口角を持ち上げる表情を相手に見せることは決して悪い行為ではないらしい。そして、発言の前に言った言葉は肯定を意味する単語だろう。

 

これは匙です

 

「はい」

 

よし。次のステップ。

 

これは匙です

 

さっき言った言葉を、今度はパンを指しながら言う。少年も私がやりたかったことに気がついたようだ。

 

「いいえ」

 

これで否定を意味する単語も手に入った。私はスープを飲み干し、椀を二本の指で軽く叩く。

 

これは……

 

「これは椀です」

 

かくして、私は名詞を集める手段を手に入れた。

*1
旅の方ですか?僕の言葉、わかります?(東方通商語。以下特記なければ少年は東方通商語で話していると解されたし)

*2
汝、我が述べる言葉を解するか否か?(聖典語)

*3
私、わかるしない、あなた、口から出す(古帝国語)

*4
まあ、まずはご飯にしましょう

*5
これは、パンです

*6
これは、匙です

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