文字を書き、会話をし、収穫を行い、ケトの説明を聞き、ケトに色々なことを教える。そういう生活がしばらく続いている。
「大丈夫ですか?」
ケトから見ても私は根を詰めすぎているらしい。うん。まあこのくらいならなんとかなる。大学時代に無茶をした経験が生きたな。どこまで行けばぶっ壊れるかの見当がつくので、その直前で止めておく。
「ん。問題ないよ」
「それでは、昨日の続きから行きましょう」
そうやってケトは巻物を広げた。
「学問は13に分類されます。覚えていますか?」
「ええと、一つ目の組が文法学、修辞学、万神学。二つ目が算学、幾何学、天文学。三つ目が自然学、薬学、医学。最後が地理学、法律学、統治学、だっけ*1」
「ひとつ忘れています」
「ああ、哲学」
「その通りです」
今ケトに教わっているのは学問の基本だ。つまり、この世界では世界をどのように分割しているか、ということ。日本の大学では自然科学、人文科学、社会科学といった分類が用いられてきた。中世のヨーロッパでは七柱の女神によって示される文法学・修辞学・論理学・算術・幾何学・天文学・音楽が。イスラームでは「固有の学問」と「外来の学問」が。インドでは五明が。私の知っている現代に息づいているものとなると、日本十進分類法の元の
「文法学で文章を作る規則を学び、修辞学で良い文章を学ぶ手法を知り、万神学で神をいかにして称えるかを解する」
聖典語の文章の該当する箇所を指で抑えながら、ケトは東方通商語でゆっくりと話してくれる。
「質問いい?」
「どうぞ」
「この文法学って、聖典語の?」
「ええ」
「たとえば東方通商語の文法についてって、学問として成立していないの?」
「するわけないでしょう?」
おっと、面白い違いを見つけた。
「なるほど。私の知っている言葉の規則についての学問では、ある特定の言語を対象としていなかった」
「……確かに、聖典語の特徴を表すためにほかの言語との比較はあるとは思いますが」
「そうじゃない」
たぶんだが、ケトの常識と私の常識が違うのだ。
「私は、私が日常的に話していた言葉で学んだんだ」
「……あなたが、聖典語みたいなものを話す土地で生まれたのではなく?」
「うん」
「無駄ではないですか?」
ケトが驚いたように聞いてきた。
「無駄って、どういうこと?」
「例えば新しい考え方を表す時に、いくつもの言葉で同じ意味を持つ単語を個別に作らなければなりません。何か知識を共有するときも、いちいち翻訳しなければ伝わらないでしょう」
「多くの人が使う言語で共有はなされていたよ。ただ、それとは別に私が日常的に話していた言語でも単語が作られて、それでも発表がなされていた」
「……待ってください。つまり、いつも話すような言葉で、学問をしていたのですか?」
「うん。そうしないと、わかりにくいよね?」
「そんな言葉で、学問に必要な……言葉の基準が、満たされるのですか?」
なるほど。ケトが言いたいことが飲み込めてきた。中世ヨーロッパにおけるラテン語の地位を、あるいはアフリカ植民地時代以降における宗主国語の役割を、聖典語が担っているのだ。勉強ができるということは大前提として聖典語ができるということ。
「満たした。それは決して簡単ではなかったけれども、それをしなければ全ての人が文字を読めるようにはならない」
「……なるほど」
解体新書、舎密開宗、西洋事情。日本語で学問ができるようになったのは、西洋の科学の言葉を日本語に対応させていったからだ。
「例えば聖典語の本を東方通商語にすることってできる?」
「それで、文字を教えるのですか?」
「例えばの話、ね」
少しケトは考え込む。
「無理では、ないです」
つまりは非常に難しいのだろう。これだけすらすらと説明できるケトが難しいと言うのだ。相当なものと考えていいだろう。
「少し、私が話をしていい?」
「どうぞ」
「話す言葉と、学ぶ言葉が同じだったら、余計な学習に時間を取られずに学問ができる。ある地域特有の問題について扱うこともやりやすくなる」
「……聖典語の特別性の否定は、あまりいいものだとは思われていません」
「ここでも壁があるか……」
私はため息を付いた。まったく、問題が多い。全てを壊すことは難しいだろう。変化することはあったとしても、文化や伝統を拭い去るのは大抵は流血が伴うほどに危険なことなのだ。