図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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第18章
温泉


お湯と湯気に濡れてぺしょんとなったケトの前髪が目と同じぐらいの高さになっている。私は事前に頭の上にまとめておいたのであまり問題はない。ああ、そろそろこの北の方に来てから切ってなかった髪も整えたほうが良いのかな。というかこの世界の理髪の水準がわからない。図書庫の城邦にいた時はトゥー嬢に紹介してもらった身だしなみ全般をやってくれる女性客がメインターゲットの床屋に行っていたのだが、前髪を短く切って後ろ髪を適当に調節してもらうだけだったからな。あとは爪を切ってくれたり油を塗ってもらったりしたが、店員さんは無口な人だった。まあ私はかつての世界でも床屋での話が苦手だったから助かったが。そういえば理髪とかの歴史はちゃんとやったことがなかったな。マルセル・グラトーやチャールズ・ネスラー、ヴィダル・サスーンの名前ぐらいしか知らない。

 

「キイさんは平気なんですね……」

 

赤くなっているケトが言う。

 

「昔はよく浸かっていたからね」

 

湯温はセルシウス温度で42度ぐらいだろうか。ちょっと熱め。今は外で寒くて閉じていた毛細血管がゆっくりと開いたぐらいである。ケトはちょっとこの感覚とか温度が辛いらしい。まあこのピリピリした感じは身体にいいものではないだろうしな。

 

「ま、のんびりしよ。そのためにわざわざ来たんだ」

 

そう言って私は頭を縁において、肩まで湯につける。全身に痛みというほどではないが疲れが残っている。これが消えるのには数日かかるが、その後また帰らねばならないのだ。行きの商隊が色々やって帰るのと同じタイミングで私たちも移動する予定である。

 

「そういえば、この地域では温泉は別に神聖視されてないんだな……」

 

ぼんやりと白い曇り空を見ながら呟く。少し濁ったお湯は硫黄だろうか。炭酸カルシウムかもしれない。湯船は基本的に石と砂、それと漆喰みたいなもので水止めしたものだ。特に屋根もついていない露天風呂。源泉と湧き水をいい感じの量で混ぜてこの温度を出している。上流には温度調整用の池みたいなものがあるのは確認した。

 

「そういう伝承はあるのかもしれませんけどね」

 

「衙堂がないと、そこらへんが残らないか……」

 

「旅の司士や司女が聞き取ったものが大図書庫にあるかもしれませんけどね」

 

布教というか修行の一環として衙堂の人がフィールドワークに行くというのはそういう宗派では結構あるらしい。これは宗派と言えば良いのか?図書庫の城邦を中心とした地域では基本的に司士や司女の育成が城邦内の大衙堂で行われるのだが、そうではない地域ではある程度大きな衙堂で行われたりするので相互交流があっても派閥というか思想のズレが生まれるのだ。正典(カノン)がないとはいえ広い地域の衙堂が共同で出す声明とか過去の行政判断例とかがあるので、ある程度権威も生まれる。まあ権威もない組織に行政を担ってほしくはないか。

 

「ああいうの、記録されるばかりで参照されにくいのがなぁ」

 

「参照はされているはずですよ?」

 

「機会の問題。何らかの方法で全文献をまとめて、手整鑽孔紙(ハンドソート・パンチカード)にでもするか……」

 

「数十年がかりの事業になりそうですね」

 

「本当は電気式の装置を使いたいんだけど……」

 

「どういう仕組みなんですか?僕の考えでは通電で孔を読み取るとか、放電で孔を開けるとかなのですが」

 

「真空管みたいなものを使うんだよ。出力を入力に戻してあげれば、状態を保存するような機構ができる。それを大量に組み合わせて、うまくそこから情報を探せるようにしたいんだけど……」

 

浮遊ゲートMOSFETの展示を見たことがあるが原理を完全に理解しているわけではない。まあ背景の数学理論をまずは用意して、材料とか加工技術の発展に応じてそこらへんを改善できるようにしよう。パラメトロンみたいな素子が主流となった時に数学モデルがちゃんとあれば効率的な回路設計もできるだろうしな。まあ、そこらへんができる時には私も死んでいるかもしれないし。

 

「……キイさん?」

 

ケトの声で意識を現し世に引き戻される。危ない危ない。

 

「大丈夫。生きているよ」

 

「窪みには悪い空気が溜まっているという話もありますし、笑えませんからね?」

 

「私が倒れても、巻き添えになるから助けないほうが良いよ」

 

二酸化硫黄ならともかく、硫化水素は厄介だ。まあここは温泉が出ている所からそれなりに離れているので問題ないだろう。風向きとかがあれか。

 

「……キイさんが倒れても、今はあまり影響ないからいいですけどね」

 

「影響があったら困るよ。私に依存した何かがそんなにあったら困る。……私のほうがケトくんに頼りすぎている気もするけどさ」

 

「僕の方もそれなり以上には頼っていますからね。僕が困るから倒れないでください、と言うのは駄目ですか?」

 

「わかった。気をつけるよ」

 

そう言いながら私はお湯の中で身体をゆっくりと伸ばす。凝っているというほどではないが、まあ温めて可動域を広げておけば怪我をする可能性も下げられるだろう。

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