図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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医者

「不躾だが、何か悪い病でも抱えているのかい?」

 

湯上がりに休んで冷たく硬度が高めの清水をちびちび飲んでいると、原義の方の壮年ぐらいの男性が声をかけてきた。私より十ばかし歳上だろうか。っと、あれ、もう私は30歳近い?超えた?直視したくない現実を置いておいて、私は隣に座る男の方を向く。

 

「どうしてそう思うのか、聞かせていただいても?」

 

「いや、先日も先先日も湯に浸かっていたからさ」

 

「趣味だ」

 

「ならいいが。あまり浸かりすぎると毒となるから、気をつけるんだ」

 

たぶんいい人だな。

 

「あなたは医学師か?」

 

「そんな上等なものじゃない。ただの医者だよ」

 

あ、なるほど。これは言い方が悪かったな。医学師といえば正当な教育を積んだみたいな感じの意味を持ってしまう。我流か、何らかの師から見よう見まねで学んだか、ともかくそういう経歴だということになる。まあこの世界にはそこまでちゃんとした医学がまだないわけだが。

 

「そうか。しかし、いい目をしているのは間違いない」

 

「そう言うあなたは医学師なのか?」

 

「いや、南から来た司女だよ」

 

「ははあ、それは遠いところからだな。どうだ、このあたりは面白いかね?」

 

「かなり。色々と学ぶことがあったよ」

 

「それはよかった」

 

「……ところで、医者としてどのようなことをしているか聞いても?」

 

「とは言っても、そこまでのことはしてないさ。湯治に来る人の中にはあまり良くない患者もいるからな、そういうのに声をかける仕事をしている」

 

「そんなもので暮らしていけるのか?」

 

「報酬ならそう要らないさ。このあたりをうろつけば俺の助けた人のやっている宿で夕餉を頂いて寝場所を貸してもらうことぐらいできる」

 

おや、となると医術の腕とかよりも人脈でどうにかやっている人物か。

 

「いい医者だな」

 

「どうも。いい旅を」

 

彼が去っていき、私は息を深く吐く。医療を発展させたとして、彼のような地元密着型の活動をしている人間にどこまで届けることができるだろうか。文字が読めるかどうかも怪しそうだ。

 

「やはり、文字からか……」

 

教育体制を整えるのは「鋼売り」に任せるしかないだろう。応急処置とか抗生物質の分野は荒事をやっている以上受け入れられはするはず。必要な技術を頭の中でぼんやりと組み上げていく。

 

応急処置のために必要なのは血液循環説とかだろうか?火で炙って血を止めるなんて話はこの世界では見たことがないし、結紮法が採用されているという話も聞かない。まあそもそもそこまで必要とすることが普通はないからだろうな。義肢の人も見たことがないし。傷とかはあるのかもしれないが、そもそもここらの人の裸を見る機会がないのでわからない。入浴している人もそれなりにいるのだが私が高温の場所にいるのと湯が濁っているせいでよくわかっていない。

 

詳しい構造を知るためには解剖が必要だが、これは宗教的な理由で少なくとも図書庫の城邦では制限がかかっていた。とはいっても別に復活の時に問題が起こるとかそういうものではない。ある種のインフォームド・コンセントだ。私がいた世界ではこの考え方はかなり最近、第二次世界大戦後に生まれたものだったはず。患者に真実を伝えても無意味だという考え方はそれなりに根強かったが、こっちではきちんと説明をして本人の選択を尊重するようになっている。しかしこれが厄介で、生前に解剖の許可を得る必要があるのだ。それもかなり面倒な手続きを経て、である。そして解剖はいたずらに行ってはならず、厳粛に一部の選ばれた人間だけで、十分な学術的知見が得られるとわかっている場合にのみ行われる。肉眼レベルの解剖学は甘いながらもできているのでここ数十年解剖は行われていない。ここらへんは私の司女としての肩書と顕微鏡の利用でどうにかなるだろう。

 

感染症の問題では培養が必要になる。アンジェリーナ・ファニー・ヘッセの提案した寒天培地を使いたいが、紅藻の分布とかの知識がない。手に入らなければゼラチン培地を使う必要があるだろう。実験動物も必要だ。いい感じの動物を純系にしておかないと。ヌードマウスを作るには時間がかかるか。まあともかく、ここらへんは農業分野と並行して数十年がかりのプロジェクトを走らせておいたほうがいいだろう。答えを知っていても、時間をかけないと得られないものは多い。そのうえ私は答えを知らないからな。FOXN1のコードもどの染色体上にあるかも知らない。抗生物質の抽出は酸と塩基、有機溶媒と無機溶媒で基本的にはなんとかなる、はず。電気泳動とかキャピラリーによる液体クロマトグラフィーとか、色々使えるはずだ。

 

あとは化学修飾とか合成とかするタイプの抗菌薬。十年もあれば簡易的な質量分析器はできるだろう。燃焼分析やスペクトル測定、XRDと組み合わせればかなり幅は広がるはず。どれも今までやってきたもの以上に難しい。真空、高電圧、精密測定、純度の高い化学薬品。私一人の手には負えない。

 

ま、この分野に手を付けたら私の働き盛りが終わってしまうだろう。十分その価値はあるが。基礎的なアイデアとつまずきそうな点の解決策を用意して、私は普及とかに回るべきかもな。

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