船の上での生活に慣れるのは身体が覚えていたからかそう時間はかからなかった。前回よりも精密になったはずの六分儀で陸地の測量などをして海岸線図を作っている。なお計算を大抵間違えるので最終清書用の図を作るために十倍程度の下書きと書き損じが生まれている。持ってきた紙の量が持ってくれてよかった。
「……ケトくん、ちょっと」
南中観測を終え、無線機の
「どうしました?」
「ちょっと聞いて欲しい」
「わかりました」
受信機から伸びる
「……確かに何か、聞こえる気がします」
詳しくは聞き取れないが断続的な音。耳鳴りか何かではないかと思ったので確認してもらったが、ケトも聞こえると言うなら何らかの人為的に作り出された電波を受信していると考えるのが妥当だろう。
「そうだよね」
前回通信が途切れた場所を記した雑な海図と比較して、おそらく二倍を超える距離での通信ができている。もっと丁寧な検波装置や適切な増幅機構があれば実用レベルになるかもしれないしれない。少なくとも正午報は受信できそうだ。
「それにしても、どうしてだ?」
私がいない間に無線の改良が進んだのだろうか。考えられないわけではない。もしそうだとしたら色々と記録が生まれているだろうから楽しみだ。
「新しく電波の送信場所を増やしたとかでしょうか」
「ああ、あり得る」
頭領府外交局の活動の一つとしてやっているのかもしれない。まったく、こういう情報は新聞にはあまり載らないのでよくわからないんだよな。全くもどかしい。とはいえ今日の観測は終わったので撤収しよう。
「あとは時間の差を測定するための精密な機構でもあればいいのだけれども」
ストップウォッチみたいなものだ。クロノメーターの構造の秒針部分だけ抜き出したようなものだと考えてもいい。砂時計よりもマシな精度であればいいので、これも作ること自体はそう難しくないだろう。数年以内にはできるはずだ。ああ、まったくやりたいことが増えてしまった。
「それと、飲み水は大丈夫ですか?」
「何度も聞いてくるね。あまり問題ないよ」
カルキの味は慣れてしまえばいい。アルコールの利尿作用がないのでそれも助かる。
「……間違いない、と思います」
ケトが
「あそこに置かれているんですか」
「そう。それに正午報が図書庫の城邦基準のものも同時に報知している」
どうにも時差の計算が合わない時間に正午報があったので海図と見比べて理由を確認したらちょうどその発信源となるような場所となる可能性がある方向から電波が出ていることが確認できたのだ。指向性の強い
「ここで計られるものとずれている、と?」
「その通り」
このままだと事実上の標準時が図書庫の城邦を基準としたものになりそうだな。商会の系列がどこかの土地を手に入れて送信設備を置いたのだろうか?私がいない一年の間に電波の話だけでも色々と進んでいるように見える。新聞を見る限り行政側も色々やっているらしいし、私が帰ってきても時代遅れ扱いされやしないかどうかが少し不安だ。まあそうなれば歴史学者として生きるだけであるが。だってこの世界の科学技術史、絶対楽しいことになりますよ?
「あれ、とするとこの場所を起点に更に海図が補正できたりするのでしょうか」
「そうだね。複数の基準があればそれだけ図は作りやすくなる」
とはいえこれをちゃんと考えられる人間がいるのか。こういうことは自分しかできないだろうと何処かで思っていたので嬉しくもあり悲しくもある。
「……ところで、これは声ですか?」
「えっ」
ケトから受け取った
「……聞こえました?」
「……うん」
もし私が聞いたものが声であれば、レジナルド・オーブリー・フェッセンデンに追いついたわけだ。いや、それ以上かもしれない。あの時代とは違って真空管を使える分、声がよく届くはずだ。ここから図書庫の城邦までは四半月。通信実験を行うには悪くない場所だし、海峡であるため将来的に船舶への送信を行うことも考えれば確かに適切な立地だ。海事的要所でもあるし。
「受信側に真空管を使った設備がある可能性が高い」
「とはいえ、寿命が短くて使えないと聞きましたが」
「去年の話だよ。それに改良案は置いておいたからもしかしたらそれが使われているかもしれない」
拡散ポンプの話はしたし、適切な油がなくとも水銀で動きはする。産業保健的にはあまりおすすめできないが、冷却トラップとかがあれば……。あ、そうか、そろそろ低温が作れるのか。これでまた真空に近づけることができる。金属加工と新しい材料の可能性で少し面倒なハードルをクリアできそうだ。
「キイさんがいなくても、ちゃんと変わっているんですね」
「私が来てなくても、数百年以内には起こっていたと思うけど」
荷物を整理しながら後ろを向く。図書庫の城邦に向けての風を受け、貨物船の帆は張っていた。