この世界にも簡易的な冷蔵装置はある。構造はそう難しいものではない。大きい壺の中に防水された小さい壺を入れ、その隙間を濡れた砂で埋める。別に濡らすのは海水でもなんでもいい。これを放っておくと染みた水が蒸発して気化熱で冷めるというわけだ。熱くとも乾燥している時期ならこれで果物みたいな生鮮食品は結構長持ちする。まあエチレンガスが溜まって追熟が起こらないようにするとかいうのもあるが。
では仮にこの染み込ませる液体を変えたらどうだろうか?例えば気化熱で氷点下まで下がるような都合のいい物質があれば。
まあ、あるのである。例えばエーテル。とはいっても天上世界の第五元素ではない。エタノールの脱水縮合で作られるジエチルエーテルの方。なお笑気ガス、つまり亜酸化窒素といい感じに混ぜればそれなりに実用的な麻酔薬としても使える。便利。あと飲むと酔える。メチルアルコールより安全。
っと、というわけで実験装置を用意した。基本的な構造は二重の壺と同じだ。ただし、見やすいように大部分を
「このふいごで揮発液をこっち側に送ると……」
商会の実験工房で、この装置を作り上げた職人がデモンストレーションをしてくれる。別の厚めの
「……確かに、冷えてきて
「ああ、これでちゃんとやると中の水が凍ることは確認した。が……」
「ふいご部分の密閉、か。噂には聞いているが……」
私はため息を吐く。
「ああ、色々と試したがあまりいいものがない。今使っている蝋も完全ではないしな」
ジエチルエーテルは有機溶媒だ。つまりは色々な物質を溶かすわけで、パッキンみたいなものに使いたい多少の弾力がある物質はたいてい犠牲になってしまう。私の記憶ではエチレンプロピレンゴムみたいなものを使っていたが、重合にはそれなりの圧力かツィーグラー=ナッタ触媒が必要になる。まあチタンはそれなりにありふれているし、四塩化チタンは蒸留で比較的簡単に回収できるからマシではあるが。
「試したものの一覧を見せてもらっても?」
「ああ、ただこれは俺がやったものではなく別の班がやったものだ」
そう言って彼が渡すのは基本的な材料の耐薬品性をまとめたリスト。ふむふむ、樹脂とかは基本溶けてしまう、と。研究中のある種の高草から取れる樹液ベースのラテックスも駄目。飽和結合を含むのが問題だから水素処理すればいいのかもしれないが、そうすると強度とか下がりそうだしな。
「……完全密閉型のふいごは?」
「一応回転式のは試されていますがね、まだガタがきつい。それと密閉となると磁石で外から回す形になるでしょうが、そこもあまり……」
「まあでもこれが実現すれば、物流は大きく変わるのは間違いない」
「海に出ている奴らからせっつかれてますよ。氷漬けの果物なんかを食べれればそりゃあ良いでしょうとも」
氷による食品の保存ができれば、サプライチェーンを広げることができる。
「……仕方ない。今の段階で実用に入ってしまってほしい」
「良いんですか?判断できるのはキイ先生ぐらいでしょうからあまり口を挟みはしませんが」
「わかってるよ。実用性にまだ難しいところはあるし、色々甘いし漏れるのも知っている。外部から抜けた揮発液を補充できるようにして、基本的な部分を金属で作り変えて、熱が逃げて欲しくないところは……あれはもうできた?」
「簡単でしたな。なにせ黒曜石を砕いて炉に突っ込むだけだ」
パーライト。フェライトとセメンタイトの共析晶と同じで
「ひとまず氷を作り出せるだけのものを用意してほしい」
「はいはい。できれば水力で動くように、ですか」
「そう。こっちの引いた揮発液を冷やして、もとの二重容器に戻すのはできそう?」
「銅で作った管に通せば良いのでしょう?その手の方式を使っている蒸留器は薬学師の先生が使っているらしいから、そこのやり方を使わせてもらおうかと」
「やはり頼りになるな」
「いやいや、キイ先生の知識と説明あってこそだよ」
そう言われると私は苦笑いするしかない。一応他にも冷却材を作る方法はあるにはあるのだ。例えば高圧で液化させた二酸化炭素を高速で吹き出させるとか。ただこれにはそれだけの圧力に耐えることのできる容器が作れないという問題がある。製紙用の鋳鉄でできた加圧容器があるが、あれでもたかだか2気圧とかだったはずだ。本来は蒸気機関の開発の歴史の中で培われてきた、まあ実際にはそれ以前の火砲製造のノウハウを引き継いだものがない分私の知っている歴史と比べて遅れがちな気がするが、まあできることをやっていこう。