「これが?」
私は
「そう。種油、樹脂、そして精油を混ぜて作ったものです」
そう説明してくれるのは印刷物管理局の中にできていた印刷物研究班の人。学びを修め薬学師としてのキャリアを歩もうとしたところで印刷物管理局に来てしまったのである。新規採用組として印刷物管理局が直接雇用している出向ではない若手職員だ。
「耐水性は?」
「問題ないですよ。乾燥もしっかり蓋をしておけば問題ありません」
揮発性の油はあくまで溶媒だ。これが飛ぶことでなんか色々反応が起こって木材の表面に硬い防水性の被膜が形成される。いわゆるワニスである。
「試し印刷は?」
「できました。これです」
横を向く少女のスケッチ。綺麗だし、私がいた世界でもそれなりに良い出来と言われるだろう。少なくとも私が描くよりもよほど上手い。
「誰が作ったの?」
「今は来てない書字生ですね。これは恋人の銀絵*1をもとに作ったようです」
書字生とは今まで本を手で書き写したり、あるいは複製用の木版を彫ったりしていた人たちだ。かつては本を買うような人たちの金を書字生をやっているようなちょっとお金に困っている学徒に回すためという側面もあった。今では印刷機の発展で活字並べをしていたり仕事を辞めて別の所に行ったりとかつての書字生の進路は様々らしい。扱っていたのは基本的に聖典語なので最近の学術分野の発展によって必要となった人材源にもなったとか。ああ、研究がしたい。名簿を見比べて誰がどこに行ったのかの統計を取りたい。いやそう考えるととても面倒だな。何で私はこんな事を嬉々としてやりたがっていたんだ?いや楽しいからであるが。OCRとかと組み合わせれば多少は楽になるかもな……などと考えたが、もうそういうことは、少なくとも今はできないんだよ。
「版はある?」
「こちらに」
表面に撥水性のコーティングをした後に削って版を作り、そこに水性の
解剖の記録を印刷することを考えた時に選択肢はいくつかあった。一つは写真。ただ、写真を印刷できるようにするのには結構ハードルがある。網版でフォトエッチング処理をすることを考えても網版と感光剤という課題二つを解決するのは難しい。エングレービングのように金属を彫る技術はあまりないしそういう人は立体的なものを彫り上げるとかが専門でスケッチが上手ではなかったりする。
というわけで私は木版に目をつけた。というかケトがアイデアをそっちに絞るようにと言った。引き出しがいっぱいあるのはいいのだが、どれを使えばいいかをきちんと相談できる相手というのはなかなかいない。私の知識を心置きなく開示できるのはケトだけなので、そういう意味では今のところ替えのきかない貴重な存在である。まあこういうことを考えると私の中の標準化とかを推進する部分が特定の人間に依存したシステムは良くないぞと言ってくるが蹴り飛ばす。いいんだよ人間関係から属人性を奪い取ったら何が残るっていうんだ。ケトの方も私を単なる仕事上のパートナー以上の扱いをしてくれているしね。
「……彫りは難しかったりするの?」
「聞く限りではそうでもないようです。今まで細かい印刷用の版なんかは上手く残しながら削っていく必要があったので、それに比べれば削ったところがわかりやすく線になるほうが楽だそうです。まあ混乱するそうで何回もやり直したようですが」
「確かに」
私の知識を漁っても木凹版というものはなかなか出てこなかったので本当に作れるのかなと思ったがあまり問題ないようだ。
「これを作るの、とても大変だったんですよ?」
研究班の人はため息を吐いて言う。
「具体的には、どこが?」
「精油ですね。匂いが必要というわけではないので原材料から探す必要もありましたし、蒸留の始めの方と終わりの方では性質が違うので何回か繰り返してちょうどいいものを見つける必要がありましたし……あとはいい感じの粘りを出しつつ弾かれるような
「まあ、まだ改良点はあるだろうからお願いするよ」
「同年代と比較してもかなりいい賃金を貰っているのでまあ構わないんですけれども、あまり無茶を言わないでくださいね?局長が色々変なことを頼まれるのはキイ嬢からだけではないので」
「……はい」
まあ、印刷物という現在進行系で世界を変える技術を管理するのはとても大変だろう。発展してきた今では必要となる役割も変わっているはずだ。一部の学徒が作っていた海賊版の摘発が衝突に発展したなんてこともあったらしいが、今までは概ね問題なく進んでいる。噂では管理局の収支もプラスになってきたと言うし。一応準公的機関のようなものだから儲けるのはいかがなものかとは思うが、そもそも本を読むような層が金を持っているのと公教育についての考え方が薄いのもあって、何てことを考えるならまあ今のところはこういうのでいいのだろう。理想は大切だが、今すぐ実現するのが難しいなら布石に留めておくのも手だ。