油の灯りの中、一人の男が金の腕輪を外して机の上に置いた。長卓会議の間断っていた酒を
男の顔には疲れからかわずかに皺が寄る。ここ数年で一気に起こった出来事は全てなんとか対応できる範囲にはあったが、それでも彼の精神に疲れをもたらしていた。
「……図書庫の城邦の司女、キイ、か」
正直なところ、先日彼女が名乗った時に彼は心底安堵した。少なくとも、彼女はしばらくは自分たちの敵にはならないだろう。そうでなければ「図書庫の城邦の」などとは名乗らない。あれだけの人の面前で宣言したのだ。ここで彼女の側に着いて争うほどの人はいない。必要とあれば、頼めば味方にもなってくれるだろう。弟からは平和に甘んじていると批判される彼であったが、平和はそう悪いものではない。兵の派遣も、この城邦が戦火に巻き込まれた時の被害に比べれば微々たるものだ。それで周辺諸邦の信頼を勝ち得ることができるのであれば、自分は兵たちに死んできてくれと頭を下げることができる。そう考え、男は酒を舐める。
今回長卓会議で決定した内容のいくつかに、キイが関わっていることは「刮目」からの報告で掴んでいた。なにより彼女の腹心であるケトが動いているのだ。隠すつもりはないのだろう。一部のものはケトを止めようとするか、あるいは多少無茶な手を使ってでも仲間に引き入れようとした。余計なことを、と彼はため息を吐く。いや、ある意味では無駄か。
そう考え、キイとケトの関係を羨んだ男は小さく笑った。自分と妻との関係は、あの二人のように決していいものではない。もちろん、一人の女性として嫌っているわけではない。長い間子を成せなかったことについても、別に構わないと思っている。ただ、あそこまでの信頼を妻とは築けていない。もちろん酷い夫の話も、妻の話も聞いている。それに比べれば、自分はまだ幸福であるし、彼女を幸福にしているとは思う。
そういえば、と頭領は昔の報告を思い出す。キイについては経歴を調べることができず、ケトについても養母のような存在としてあの司女、ハルツがいたというが、どちらも家には縛られていない。別に自分だって逃げようと思えばどうにでもなるほど、特に家については縛られていないのだが。かつての古帝国を統べ尊いとされた血、この一帯を任せられた一族、その末裔というだけにすぎない。自分の家はただ曽祖父の代から頭領を任されているだけであって、系譜をもとに頭領たる資格を定めるのであればはっきりとわかるだけでも数百人はこの城邦にいるだろう。詳しくわかっていない家系図の部分や、書き込まれなかった庶子や、あるいは忘れ去られた家等を数えれば別に誰であってもあの長卓の短辺にある椅子に座ることは問題なくできるだろう。所詮は血など幻想に過ぎない。ただ、幻想は幻想で意味があるのだ。たとえ死なぬとしても、誓いを破る事のできるものは少ない。そういうものなのだ、と思いながら残る液体の少ない盃に彼は唇を近づける。
ただ、このまま行けば娘か、もし生まれたとすればその弟が自分の跡を継ぐだろう。もし弟を次代に、という声が大きければ娘の縁先を選ばねばならない。あの可愛らしい、涎を垂らして眠る赤子にいずれにせよ苦しい思いをさせねばならないのか、と彼は一瞬は考えるがそれでも自分の実に恵まれている境遇を考えれば贅沢を言う事はできない。
「対応すべき問題は増えるが、それだけ手段も増えている。実に厄介な、それでいて魅力的な人物だな……」
飲みすぎると次の日に苦しくなる、この旨い酒のようだ。もし自分に過剰な欲があれば、彼女をこの城邦に封じ込めていただろう。もし自分に過剰な恐れがあれば、信頼できる衛兵か巡警に短刀を持つよう命じていただろう。いずれの選択も取らなくて正解であった。もし、本気で彼女が敵を定めたのであれば、それはそう遠くないうちに討ち取られるだろう。彼は外交局からの報告を思い出す。今後十年以内に鋼と布の価格の暴落が発生する可能性がある、とあった。彼女の手によって機械を作るための機械が、道具を作るための道具がもたらされたからだ。水車によって糸が紡がれ、人の手を借りずに動く
しかし、それによって生まれる問題への対応が必要だ。冬に紡ぎを行う農家の税をどうするべきだろうか。機織りたちの仕事が失われるのではないだろうか。良い剣が出回れば、その輝きで目が眩らむ愚かな人が出てくるやもしれん。ただ、希望はある。キイは責任をきちんと取る人物である、と彼は評価していた。あの夜の事を思い出す。もう五年も前になるのか。
彼女は災厄を予言した。もし印刷物が野放しになっていれば、今でもまだ法すら定まっていない状態で対応しなければならなかっただろう。しかし彼女は本職に言わせれば拙いながらも規則を定め、印刷物によって作られる商品をも生み出した。印刷物管理局の成功を真似るべく、多くの人があの図書庫の一角を訪ねているという。ああ、何が起こるか知っていればそれは可能だろうとも。誰も口にしないが、彼女が遠い未来かどこかの知恵を持っていることは理解している。しかし、知っていたところで動けるものなのだろうか。
頭領は自分の無気力に笑う。自分ができることは、ただ決めることだけだ。それだけで潰れてしまいそうな夜もあるのに、彼女はきっとそれ以上の選択をして、行動に移している。
多分、自分は彼女を羨んでいるのだろな、と彼は思い、最後の一滴を盃から口の中に落とした。懐に腕輪をしまい、寝台に向かうために腰を上げる。明日は予定がない。あれだけの仕事をしたのだ、一日か二日休んだところで責められはすまい。ただ、どうせなら自分も行動をしてみるべきだろうな、と彼はふと考える。明日は、かつてやっていたように妻の髪を梳いてもいいだろうか。
活動報告にあとがきというか今まで書いて思ったこととかをメモみたいにしておいたので気になった方はどうぞ。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=289416&uid=373609