よく研がれた刃物が、肌にゆっくりと切込みを入れていく。医学師の手がわずかに震えているのは、緊張からだろうか。
流れる血で染まっていく布。一応赤外線を防ぐ事を確認した
死後硬直が全身に回る前に解剖を始めることができた。かなり部屋は冷たいが、多分それもいい方向に働いたのだろう。中学生の好奇心旺盛な頃に色々と調べた知識は、まあそれなり程度に役に立っている。
「もう少し、灯りを上の方から当ててくれ」
「わかりました」
医学師の言葉に従い、私は照明を動かす。ちょっとしたクレーンみたいなもので吊り下げているので、比較的簡単に動かせるし対応もしやすい。覗き込む人々は口につけた覆い布越しに言葉を交わす。飛沫による感染防止みたいなものだが、どこまで役に立つやら。正直何もわからない。消毒用にアルコールと次亜塩素酸カルシウム水溶液を用意していたが、木タールからフェノールとかを作っておいたほうがよかっただろうか。まあ、今更もうどうしようもない。技術側としては今手元にあるものだけで最善を尽くすしかない。
皮膚を剥ぎ、筋膜を裂き、筋肉を除け、脂肪を拭い、腹膜にたどり着く。記録を取り、話し合いをし、写真が撮影され、そういった事が並行して行われている。血の匂い。脂肪の匂い。あとは言葉にしにくいようなものも。
「少し、現像の方の様子を見てきます」
「……ああ」
医学師の声を背に、少し外の空気を吸う。私はまだいいが、実際に手を腹腔に突っ込んでいる人達の匂いは消えにくいだろう。事前の経験から腸は早めに取り出しておくそうだ。まあ話を聞くに死ぬ直前はあまりものを食べていなかったそうだから固形物は少ないだろう。
「それで、どう?」
「まあ問題ないはずです」
暗室の扉の向こうで声がする。一応私が技術担当のトップみたいなものをやっているので、こういうところでもある程度対応していく必要がある。
「撮影の人、やはりいい腕ですね。かなり難しいはずですが、それでも綺麗な陰影を出してきています」
「それは君が適した調合をしたのもあるだろうけど」
「かもしれませんね」
「……現像したものを見て、気分が悪くなったりは?」
「大丈夫です」
「そう。ならよかった」
声の調子からしても、下手に勘ぐる必要もないだろう。一旦戻るか。
部屋に入ると、嫌でも独特の匂いを意識してしまう。とはいえ少しは慣れた。ここに腐臭が混じってくると本能がアラートを出すだろうが、まだ大丈夫だ。
解剖は進んでいく。臓器を取り出し、丁寧に切り進んでいき、内部の構造を顕にしていく。筋肉に包まれた胃、小腸から吸収された栄養分が流れる血管が縦横無尽に走る腸膜、そしてそれらが集まる門脈の先にある肝臓。私がかつて図譜で見たのとはかなり違う、色々と汚れて、生々しいそれら。陶器のトレイに取り出されたものが置かれ、一部は切り取られて構造が観察される。写真とスケッチが繰り返され、標本にするものは手際よく作業が進められて大きな
そうこうしているうちに、外は日が沈んでいた。もちろん電灯なので夜間でも作業はできるが、数日分のスケジュールを考えると流石に寝るべきだと判断されたらしい。というわけで、一回解散だ。
「……どうでしたか」
手をいろいろ入ったぬるま湯で消毒している、今回の主役たる医学師に私は声をかける。
「ただ刃を動かすだけで精一杯だ。準備もしてきて、覚悟もあると思ったが……」
そう言って、彼は深く息を吐く。
「まだやることは多いですよ。だからこそ、しっかりと夜は休むべきですが」
「そうだな。しかしこびりつく血は、慣れないものだ」
一応彼は外科とかの経験もあるはずだ。内科も外科も無いのはこの世界ならではな気がする。もちろん学問としては内科の方が体系的になっているが、外科のための技術が軽んじられているというわけではない。得手不得手は医学師によりけりだけれども。
「かなり温度を下げていますからね。かじかみやすいですし、間違えて手など切ってしまえば大変です」
消毒ぐらいはできるが、逆に言えばそれ以上は無理だ。ウィリアム・スチュワート・ハルステッドが作成を依頼したようなゴム手袋については適切な素材がまだ作れてないのと、無菌状態を保つメリットが少なかったため後回しになってしまった。ラテックスはあるのに、いい具合の硬度とか伸びとかに制御できる段階にはなっていない。まあそれなりに注力されているので、時間の問題だろう。ここらへんは私が知らないということが開発者たちの意欲を底上げしているようで、なんか悔しい。いや別に誰も何も悪くないのだけれども。
「……学びは多いが、もっと学べたのではないかと思うとな」
「記録と保存が役に立ちますよ。ひとまず、終わったら色々と考えましょう」
「……そうだな」
彼は洗った手を熱湯消毒済みの布で拭いながら、重々しく言った。