図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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海辺

坂の頂上を超えると、硫黄化合物のかすかな匂いのする風が吹いてきた。海洋プランクトンによる分解などによって放出されるこの香りは、一般的に潮の匂いと呼ばれている。

 

「海ですよ!」

 

「……そうだね」

 

ケトは少しはしゃいでいた。まあ、確かにここまで歩いて見る水平線は格別だ。なんだかんだ上下移動があったので疲れもかなり溜まっている。これで日が出ていて暖かければ言うことなしなのだが、今は収穫期が終わって温度が下がってきたところだし今日は曇りで少し寒いぐらいだ。歩いているとはいえ、外套がないと熱がかなり持っていかれてしまいそうな気がする。

 

「ここからあと、どれくらい?」

 

「すぐですよ」

 

まあ、その言葉を信じるとしよう。

 


 

遠くに見える海岸から煙が登っているのが見えた。

 

「あれは何をしているのかね」

 

「この時期だと、藻焼ですかね?ええと、海の中に生える植物、海藻を焼くんです」

 

「何に使うために?ビーズとか?」

 

「いえ、肥料ですが。しかしキイさん、ビーズの作り方を知っているんですか?」

 

「まあ、常識とまでは言わないけど……」

 

「うん。そのことは僕以外には言わないでくださいね」

 

「秘密を知っている人間は島に閉じ込めるとか、そういうことがあるの?」

 

ヴェネツィア共和国が首都のあるヴェネツィア島に近いムラーノ島にガラス職人を集中させ、事実上幽閉したという話がある。こうして作られたヴェネツィアングラスはしばらくヨーロッパで人気を博したものの、脱走したガラス職人が技術を他国に伝えたり大陸軍(Grande Armée)が共和国を解体したりしてなんやかんや……。やばいなあまり興味がなかったから記憶が曖昧だ。

 

「何でそんな怖いことを……。そこまでではありませんが、あれはいくつかの街での特産物です。その製法は秘密になっていると読んだことがあるので」

 

「なるほど。……例えばさ、私は空気から肥料を作る方法を知っている」

 

「……どうするんですか?」

 

「何種類か方法はあるよ。例えば雷でできた風を水に溶かすとか、雷を使う炉である種の石と炭を加熱して空気と混ぜるとか、水を雷で分解した後空気と高温で反応させるとか」

 

「ろくでもない方法ばっかりですね。……そして、そういう方法ができてしまえば藻焼はされなくなってしまう、と」

 

「そう。私の知識は、それだけの力があるんだよ」

 

「質問をしてもいいですか?」

 

「どうぞ」

 

「そんな方法が、なぜ作られたのですか?特別に収穫が増える肥料だったのですか?それとも他の肥料よりも安かったのですか?」

 

「……私がいた場所では、これがなければ世界の人の腹を満たすことができなかったんだよ」

 

「そんなに、人が」

 

「そうだね。他にも良い植物を選んだりして、世界の上から飢えというものを少しずつ消していっていた」

 

確かに全ての飢餓者をなくせたとは言えない。色々な問題があったことも認めよう。ただそれでも緑の革命は人類史に残る事業であったし、それが救った人数はそれによって被害を被った人数より多いと言えるだろう。人は空腹では幸福になれない。

 

「けれども、完全に無くすことはできなかったんですね」

 

「……そうだよ。私たちの問題の一つは世界を知らなかったことだ。海の向こうに種と肥料を送れば、あとは勝手に収穫ができると考えていたんだ」

 

発展途上国についてのレポートを思い出す。現地の文化の多くがなくなったせいで社会的共同体が喪失した例。短期的な収穫量のために様々なものを犠牲とした例。あるいは、一度の成功で自信をつけてしまった独裁者が暴走した例も。

 

「賢者であっても全てを予め知ることはできません。仕方のないことだとは思いますが、キイさんはそれを繰り返したくないんでしょう?」

 

「……君は、なんというか視点が高いね」

 

「そうですか?背はキイさんに比べれば低いですよ」

 

ああ、そうだ。私はこの世界では長身な方に入ってしまう。理由は簡単だ。栄養失調。タンパク質の不足。あの食事では、ヒトという種が持つ潜在能力を最大限に発揮することはできない。

 

「視点ではなくて、考え方って言えばいいかな」

 

「より多くのものを見ている、というのも違いますよ。先人が纏めたものを読んだだけです」

 

「何かを読んで理解できるのも、重要な才能だよ」

 

私はそこには恵まれていた。そうでなければ中学校の三年間で数百冊の本を読み切ることはできなかっただろう。まあその時には実際に「理解」できるようになっていたわけではないが。

 

「そうですかね。キイさんに言われると嬉しいですが」

 

かなり自然なので意識しないようにはしていたが、おそらくケトには相当学術分野での才能がある。もとの世界できちんと教育を受けていれば私よりいい大学に行っていたかもしれない。もちろん私は受験戦争の前線にいたわけではないし、人間の価値は偏差値ではないということは前提としておいて、としてもだ。

 

「あ、見てください。切り干し魚(ケーウェ)ですよ」

 

視線を向けると集落らしいところの近くにある干し台とでも呼ぶべきものの上に昔食べたあの鮭とばめいた橙色の棒が並んでいた。

 

「ここで作られているの?」

 

「はい。ここの名産で、色々な場所に運ばれて売られています。海藻の灰と同じように、ここの集落がお金を手に入れる方法の一つです」

 

人影が遠くに見えた。嫌でも自分がやろうとしていることに自覚的になる。たとえ満腹でも、人は不幸になりうる。

 

「目的地の衙堂が見えましたよ」

 

疲れからか思考が負の方向に走っていた私にケトが言う。その外見は他の建物とあまり見分けがつかなかった。

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