「久しぶり」
「あ、キイ先生」
前に算学を教えた若い学徒がいる集団に顔を見せると、彼は少し興奮した口調で私の名前を呼んだ。
「聞いてくださいよ、宿題が解けそうです」
「……なるほどね、円にしたのか」
円運動をベクトル的に分析し、向心力を推定。重力の強さから円運動の速度を出したところまではいい。しかしこれでは足りないのではないか?
「……説明を貰える?」
「ええと、月までの距離は月食と大地球の位置から計算できます」
「そうだね」
この世界でも金環日食と皆既日食が起こる。これは太陽と月の視差角がほぼ一致するからだが、これはなんでなんだろうな。月の大きさと距離が生物の発生とか地球環境の安定化とかの側面から制約を受けていて、恒星の大きさとハビタブルゾーンの距離とかを勘案するとだいたいそれぐらいになるのだろうか?まあ、これは本題ではない。
「けれども、そこで考えられる月の落ちる速度の変化成分が極端に小さくなるんですよ」
「ほうほう」
私はにっこりとしていく。
「なら、もし距離に応じて引かれる力が弱くなるとすれば?大地球の半径との比を考え、中心からの距離に依存すると、距離の二乗の逆数の力で引かれるとすれば計算が合うわけです」
「あくまで計算は、ね。一組の数字が合うように、計算を操作して辻褄を合わせたにすぎない。それになんだ、距離の二乗って。引く力は明るさか何かなのかい?」
私はちょっと挑発するように言う。もちろん、彼の推論は正しい。積み重ねられたデータと私の教えた数学的手法があるとはいえ、十分天才だと言えるだろう。
「僕にはここが限界でした。しかし、天文学師の皆さんが面白いことを見つけましてね」
「気になるなぁ」
「太陽から各惑星までの距離と、巡る期間についてです。期間の二乗は、半径の三乗に比例するんですよ。これはこの力が距離の二乗の逆数になるという仮説と一致していて、太陽を中心とする惑星運動体系を強く示唆しているんです。天文学の長い闘いに、ついに決着がつきそうなんですよ」
ヨハネス・ケプラー、
「それは、君がやったの?」
「いえいえ、僕がやったのは最初の最初だけで、後は色々と本職の天文学師とかがやってくれたんです。手伝いはしましたけど、僕が全部やったわけでもなければ、せいぜい重要な役回りを果たしたと言うだけであって、決して主役では」
「……そう。なら、まだ残る課題についてはわかる?」
「惑星の動きは円運動ではない、ですよね」
「そう」
「もし距離と力の法則が成り立っているのであれば、その軌道を数学的に表現することもできるはずです。詰まっているのですが、候補はありまして……」
「いいね」
「楕円、ですか?」
「……さあ、私は知らないな」
表情が変わるのを抑えろ。円錐曲線の一つ、放物線を座標平面と幾何学を使って扱えたのだ。楕円もだいたい似たようなものなので、射影幾何学とかを使えば同じように考えられる。とはいえもしそれが楕円だとわかれば、天文学の謎が解けてしまう。私がそれをしてはいけないのだ。その栄誉は、自ら謎を解いた人にのみ与えられるべきなのだ。
「先生は、教えてはくれませんか」
「そうだね。私はそれを導けない」
実際のところ、数ヶ月あればできるだろう。極座標の計算を何度かやり直して、式変形を繰り返せばいい。記憶の欠片に導出の方法はあるし、正解もわかっているのだ。決して難しくはない。けれども、それをやっては意味がないのだ。やっと学問が、技術が、活動が、私の手を離れて動き出そうとしている。いや、この言い方は傲慢か。
「なら、僕たちが解くまでです。キイ先生の名前は、そこには入れませんよ」
「そうしてくれ」
私はニヤリと笑う。正しい。後世の科学史家に面倒な謎を残すことになるが、この世界に成功体験があれば自分から謎を見つけて、それを解いて、さらなる課題に取り組む姿勢を作ることができる。いや、もともと多分それはそこにあったのだろう。私がもたらしたのは、多分私がいなくても生まれたものだ。私はこの世界にとっての異物ではあるが、私がいなければ起こらなかった発展なんてものはないのだ。驕り高ぶるな。私は天才ではないし、天才が歴史を作る訳では無い。
「……いいんですか?」
「いいよ」
「……なら、先生との関係は、僕たちだけの秘密ですね」
「秘密を抱えるのは、あまり好きじゃないんだけどなぁ」
私がどこから来たかという、別に気がついている人はいるだろうが語るつもりもない秘密はケトとだけのもののつもりだ。それ以外の秘密については、まあ少ない方がいい。秘密の共有は親密な関係を作るが、私の知る学問は秘密を廃そうという流れにあるものだ。あとはまあ、私たちの議論についていけなくて不満そうなケトもいることだし。