油の灯す薄明かりの中、私は
「……ケトくん?」
「……終わりました?」
普段は暗くなる前に帰るが、残業であったりとかの場合はどうしようもない。今日は月が出ているので問題ないが、そうでなければ薄い毛布に丸まって床で寝ていたケトのように夜を過ごす事がある。
「帰ろうか」
「ええ」
ケトはあくびを一つ。私もつられてしてしまう。
「……寒くなりましたね」
「そうだねぇ」
話しながら手際よく編集室の鍵を閉じる。とはいえそう難しい仕掛けではない。適切な手順さえ知っていれば簡単に開けられるけれども。穴から手を突っ込んで専用の金具を動かして開ける仕組みで、実際に目で見て開けるのもちょっと面倒な感じのものだ。イメージとしては知恵の輪に近い。
守衛の人に挨拶をして、私たちは門を出る。ああ、眠い。ふわふわする。ケトの手が温かい。こんな夜中まで不寝番とは大変なことであるが、ちゃんと給与は出ていて欲しい。まあ盗人と門番が手を組むことがあるのは知られているから、それなり程度の額は出ているのだろう。
「ハルツさんに会うの、怖いんですよ」
ケトが呟くように言う。あれだけ物怖じせずに偉い人達の間に飛び込んでいって、それでいてただの司女一人が怖いのか。
「……ハルツさんの名前を出すと、何人かが反応したんです」
「見習い時代にここで学んでいたわけだし、知っている人も多いんだろうね」
「誰も語りはしませんが、何かやったようで」
「それについて、知りたいの?」
「いえ、若い頃の色々なことを問い詰めるようなことはしたくないんですよ。……その時は、今の僕よりも若かったわけですから」
「もうケトも結構な年齢だもんね」
「キイさんは?」
「こっち方向の話はやめよっか」
もう私もいい年齢である。かつての世界であればもう若手とは呼ばれなくなっている年齢なのだろうか?研究系のところに入ればポスドクぐらいか?普通に就職とかもしていたのかもしれないな。まあ、今はここにいるのだ。ここでできることをしよう。
「ハルツさんが、凄いのはわかるんですよ。話を聞くに、一人で僕を育てたんですから。だからこそ、直接顔を合わせるのが気まずくて……」
「……そういうものかもね、私はちゃんとはわからないけど」
ケトが握ってくる手を、私は握り返す。
「別にハルツさんが何か文句を言ってくるようなことは無いとは思うんですよ。あの人は、そういう事はあまりしてきませんできたから。人の事を傷つけたりしようとするときはたしなめたり、時には強い言葉を使ったりしますが……」
「ああ、多分、ケトの怖がっていることの一つは対等な立場に立った時、自分が守られる存在じゃなくなった時、ハルツさんとちゃんと向き合えるかってことじゃない?」
「……対等な立場、というのは確かにそうですね」
ケトは司士なのだ。本来であれば地方の衙堂で働いていたり、あるいは事務作業とかを積み重ねて出世を目指したり、まあそんな事をしているはずなのだ。明らかに変なルートを通っているが。多分キイって人が悪いんだと思います。
「僕にとってハルツさんは、憧れというか、頼れる人だったんですよ。でも司士になって、司女ハルツと対面することになって、あの人と戦わなくちゃいけないんだって思うと……」
「私も似たような立場になったことがあるから、まあ、わからなくはないよ」
「その話、聞いてもいいですか?」
「あまり面白くはないけどね」
私はそう言って頭の中で歴史をたどり始める。あれ、もう10年以上も前になるのか。私の精神は、あの時からほとんど変わっていないように思える。
「図書庫が中心となっているわけではないけど、多くの講官が邦から給金を得て働いているような学舎、って言ってわかる?」
「キイさんが学んだところですよね。過去に何回か聞いたので、少しだけですがわかります」
「そう。そこで、私は歴史に憧れて歴史を学ぶために来たんだ。その人の本を読んだことがある、というような人に師事することができた。けれども、その人の過ちを見つけてしまった」
「過ち、ですか」
「そう。その人が読んだ過去の文献の解釈に誤りがあったんだ。それを考えると結論が変わってしまう。それどころか、今まで言われていたことが違うことになるんだ。もちろんその人は評価されていた。だから、初めてその事を聞いた時にはとても緊張したのを覚えている」
ケトが握り返してきたことで、自分が結構手に力を入れていた事に気がついた。少しだけ力を抜く。緊張しているんだろうな。
「それで、そのことをちゃんと伝えた。そうしたらその師は笑って、自分の誤りを認めて、それを発表するように言ったんだ。私がまだその師に正式に師事する前の話だけど」
「……キイさんって、とても行動力がある人ですよね」
「運が良かっただけ。私は誰かが案内してくれた道を歩いているだけに過ぎないよ」
「だとしても、足を踏み出すのは勇気が必要ですよ」
「そうかもね。……参考になりそう?」
「……さあ。けれども、少しだけ足は軽くなりそうです」
「よかった」
泊まっている部屋の前につく。疲れていたのもあって、私とケトは他の色々な事をする余裕もなく同じ寝台に倒れ込んだ。