「……キイさん、気がつきますか?」
「風が冷たくなったね」
外套越しに、背筋がぞくっとするような寒気が襲う。空を見上げると先程に比べて暗くなっていた。
「どうしますか?」
「私はここに慣れてないからわからないけど、どこか雨を避けれそうな場所は?」
「ええと、ここから戻るかそれとも先に進むか……」
「戻るほうがいいかな。先に進んで何もないよりはいい」
「そうですね。……到着が明日の昼過ぎになりそうですが」
「なら、ゆっくり行こう」
「ええ」
私たちは来た道を足早に引き返し始める。
「建物があったのは覚えていますか?」
「さっきあったね」
ゆっくりと会話するよりも、酸素を歩くことに使いたい。杖を持つ手に力が入る。
「あそこで雨をしのぎましょう」
「場合によっては夜越しか」
ぽつりぽつりと交わされる会話。
「すみません、あの時に留まっていれば」
「雨の前にたどり着ければ問題ない」
湿度は高まってきている。いつ雨粒を感じてもおかしくはない。
雨が本格的に強くなったのと、私たちがカビの匂いがする廃屋に駆け込んだのはほぼ同時だった。
「……危なかった、ですね」
息を切らせながらケトは言う。私はまともに話せない状態で床に座り込んで荒い呼吸をしていた。
「……これは、しばらく動けないね」
目が室内の暗さに慣れるころには、私の呼吸も落ち着いていた。
「ええと、こういう時はまず、火ですかね」
ケトが少し焦っている。
「起こせる?」
「……難しいと思います。この暗さと湿気では」
着火の方法はいくつかあるが、多くの場合道具が必要だ。火口になりそうなものがあっても摩擦熱で発火点に到達するのは決して簡単ではないし、火打ち石は安価ではない。ケトが今回の旅で持っていかなかったのはまあ仕方ないと言えるだろう。
「なら、まずは目が見えるうちに何かを食べよう」
「そうですね」
思考を回すことができているようでなによりだ。
喉を潤し、硬いパンをゆっくりと齧る。
「ケト、こっちに来て」
「どうしてですか?」
「暗いと見えなくなるから」
「わかりました」
壁にもたれかかっていた私の隣に、ケトが座った。やはり冷えるな、と思いながら外套の中で身体を丸めた。
「……キイさんは、旅をしたことがありますか?」
ケトの声。周りはもうものの輪郭が怪しいぐらいに暗い。
「私のいたところと、ここでは、旅の意味が違うよ」
「どういうことです?」
「車に乗って、昨日私たちが歩いたような距離の10倍は日の出ているうちに進めた」
「動物に引っ張らせたんですか?」
「いいや」
「では、どうやって?」
「説明が難しいな……」
「ゆっくりでも、いいですよ。寝語になってしまうかもしれませんが」
ああ、このくらい複合語ならなんとなく意味がわかるな。親が子に話すようなものか、男女が話すようなものかはわからないが。
収蔵品のエンジンの修理をやった記憶を頭の中で再現する。長期間いい加減な環境で放置されていて、シリンダーまで錆びたものだったので本当に苦労した。一部パーツを作り直して動態復元までもって行けたのは本当に奇跡に近い。おかげで論文が一本書けたのでよかったが、あれは一介の学生がやる範囲だったかは怪しいところだ。まあ実際は技師さんの力をかなり借りたし、博物館の名前を使って様々な資料を取り寄せたりしたので私の成果と胸を張って言えるわけではないが。
で、その知識を踏まえてもなお、エンジンについて説明するのは難しい。ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアールからフェリクス・ヴァンケルまでざっくりとした流れは抑えてあるが、その歴史に伴う技術についてはほとんど無知だ。一応私の知識を組み合わせて、ある程度の精度を持った加工機械があれば、初歩的なエンジンを十年がかりで作ることはできるだろう。その時間をかけるには、エンジンというのはどうしても魅力に欠ける。鉛バッテリー交換式の電気自動車でも悪くない性能は出せるし、その開発に注力していれば効率化は目指せたように思う。
「キイさん?」
「……あ、え、ああ、ごめん。少し考えていて」
思考が少し深いところまで潜っていた。まったく、本題を忘れそうになる。なんだっけ。
「そんなに、わかりにくいですか?それとも……」
「知らないのは、間違いないよ」
「……そうですか」
「ただまあ、そういう動くものを作りたくはあるね」
船の動力源としてのエンジンとしてなら、開発する価値はあるかもしれない。かつての世界に慣れすぎて忘れていたが、別に同じような黒い車を大量生産する必要はないのだった。というより港湾都市であればこの分野に興味を持たれる可能性はあるな。
「██████よりも疾く地を進む……*1」
ケトは眠そうに、あまりはっきりしない声で呟いて私の方に少し身体を寄せ、静かになってしまった。私も開けていたか閉じていたかわからないような瞼から力を抜いて、ゆっくりと、とりとめのない思考に溺れていった。