目覚めは、想定していたよりも悪くなかった。道路にぬかるみもなく、雨上がりの少し湿った空気も朝焼けの下では悪いものではない。
「おはよう、眠れた?」
少し寝ぼけているケトを見ながら、私は軽く身体を動かす。ラジオ体操めいたなにかだ。少しボキボキと背骨がなるあたり、あまりいい寝相ではなかったらしい。
「……ええ、いい朝ですね」
ケトも調子を取り戻したようだ。今のところ脚の軽い疲労と痛み以外は問題なし。
「すこし食べてから、動きますか」
ケトはそう言いながら固く焼き硬めた旅用のビスケットを私に差し出す。本当にかなり固く、ナイフで削る必要があるぐらいであるが案外風味はいい。よく挽いた中等から上等の麦粉を使い、低温でじっくり焼いたものだ。問題は口の水分が吸われて喉が渇くこと。角砂糖でもあればいいのだが、この世界では贅沢品だ。蜂蜜はあるらしいが、輸入が必要な高級品らしい。あとは干し果物、それに発芽した麦から手間を掛けて作る麦蜜ぐらいしか甘味はないようだ。ちなみに麦蜜はこのビスケットにも入ってはいる。酢酸鉛(II)は少なくともケトの知識にはなかった。なお私はこれを舐めたことはない。小学校時代に計画を立てようとしたら親に「自殺未遂は健康保険の適応外」だと言われたので仕方がない。さすがに工業グレードのキレート剤を何の保護もなく体内に入れるのはそれはそれで危ないのでやめた。
「だね」
私は受け取ったビスケットの端を噛み砕いた。
「あれでしょうか?」
「みたいだね」
海の先、出っ張ったような形でそれはあった。周囲には何隻かの三角帆を持った船が見えた。城壁に囲まれていると言えばそう思えるぐらいにはぼんやりとしているが、大きな都市なのは間違いない。距離はどれくらいだろうか。手を伸ばして飛び出した城壁が何ミリラジアンぐらいあるか測ろうとしたがそもそも基準がないのでわかるわけがなかった。
「これなら、門が閉まる前には間に合うでしょう」
「門限は日没と同時だっけ?」
「そうですね。まあ、実際はあまりギリギリだと嫌がられるので早く行く方がいいのですが」
うっ。締め切りギリギリ人間だった私は胸を抑える。
「ただ、やはり街に近づくと道路もいいものになりますね」
「本当だ」
今まで通ってきたものも最低限道だとはわかったが、ここからは大きな石で舗装がされていた。
「道路って、誰が管理しているの?」
「一般的にはその近くの集落か衙堂ですね。商人の荷車が通れないと困りますから」
「なるほど」
「とはいえ直すのも楽ではありませんから、衙堂経由で職人を呼ぶとか……」
ケトの話を聞きながら、私は一抹の不安を覚える。彼の知識はあくまで本で読んだものか、ハルツさんの話に基づくものだ。そういう少ない情報でうまくやるというのは本当に難しい。上京者が感じる文化の違いは面倒なものだ。大学時代の知人にそういう例があったので覚えている。結果としてその人は人間関係を嫌い研究に打ち込みどこかに就職したはずだ。めでたい。辞めていなければいいが。
「この城邦での一番大きな衙堂はどこにありますか?」
「ああ、それならまずここの通りを進むだろ」
衛兵がケトに答えている横で、私は城壁を見る。高さは私の背丈の5倍、厚みはその半分。案外分厚いものだ。これを壊すとなるとある程度の爆薬が欲しくなる。ただ城壁の上に通路があるのでここから攻撃を受けることにはなるだろうな、と明らかに思考が侵略側の状態だ。
「まだ日には余裕がありますね」
ケトがワクワクしているのが手にとるようにわかる。
「……まずは衙堂に行くよ」
「えー」
「明らかに旅人で、まわりをきょろきょろ見ている人間は後ろ盾がありません、危害を加えても問題ありませんと言っているようなものだよ」
この世界の治安は、正直に言って想定よりもかなりいい。少なくとも女性と少年が二人で歩いて襲われる心配をしながらビクビクしなくて良い程度には。ただ、街では根本的に人が多い。例え悪意を持っている人間が千人に一人でも、ケトが前に言っていた数字が正しければ数百人いることになる。実際はもう少し多いだろう。
「はい……」
「それに、ここを見る時間はゆっくりあるから」
「キイさんは、こういう街に慣れているんですか?」
「人が幾千万もいる、端から端まで歩いて半月はかかるような大きな街を知っているよ」
「それは街なのですか?そして本当ですか?」
「嘘ではない」
東海道
「で、衙堂の場所は?」
私が聞くと、ケトは目の前の人混みの道を指差した。うん。色々なものが売っていそうで心に悪いな。
「ケトくん。私が君の手を握ってもいいかい?」
「……ええ、構いませんが」
ケトの手首をつかみ、私は早足で進む。
「誘惑に負ける前に突っ切るよ!」
「わかりました」
ケトが私と速度を合わせて進んでくれる。指からはかなり速い脈拍が感じられた。