図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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課程

「すなわち、この種の分布はいくつかの場所で見られるわけです……どれぐらい?」

 

私は大きめの学舎の一室の前方にある黒板の下の板に白墨(チョーク)を置き、ケトの方を見る。

 

「42刻半、かなり長いと思いますよ」

 

かつての時間単位で言うなら三時間弱。かなりのものだ。喉も渇くわけである。

 

「……どう、だった?」

 

「まあ僕は知っている内容だったのもありますし、何とかなりましたが、これを慣れてない人に聞かせるのもさせるのも無理ですね」

 

「そっか。まあやっぱりこういうふうに教えるのは久しぶりだからな……」

 

知り合いの研究者が持っていた授業の一環で、二コマほど自分の研究を説明したことはある。ただ、あれは少し前に論文にしたテーマに近かったし、聞いていた学部生の皆さんもかなり質問とかの応答を積極的にしてくれていた。今回はそうではない。今私の前にいるのは可搬時間測定装置の試作品を持ったケト一人。あ、これは時計みたいなやつです。精度は1刻につき数拍。1刻が360拍なので、一日で数刻のズレが出る計算だ。まだクロノメーターというには惜しい精度である。一応固定型のものであればもっと精度が高められるんですが。

 

「それでも、悪くなかったと思いますよ?」

 

「一応ちゃんと教授の計画を立てているからね」

 

手元にあるメモは授業計画書というやつである。不登校だった小学生時代に読み込んだ教育系の本の記憶を引っ張り出してなんとか作ったもの。最初に問を提示し、ヒントを出していって、できれば授業を受ける人が私が答えを言うより先に自分から気がつくようにしたい。

 

今回の練習で用いた内容は統計。ざっくりとした算学的内容を含み、二項分布から正規分布を導出し、非常に弱い中心極限定理を示す。まあ社会科学の観点からはパレート分布とかを出したほうがいいのだろうが、ここらへんは実際の統計データを元に色々やらないと。

 

「質問いいですか、キイ先生」

 

「どうぞ、ケト君」

 

「この基礎となる算学の知識を教えるだけでも数月かかると思うのですが」

 

「半月で叩き込むよ」

 

「無茶しますね……」

 

「そうでもしないと間に合わないからさ」

 

標準的な知識としてこの世界の十三学の先端分野と商業、工業、農畜産業の知識を入れ、その上で問題を調査して把握するための手法とその解決策の探り方を半実地でやらせるという相当ひどいスケジュールを作ってある。月に一度はヘルウィークみたいな感じになっているが、仲間と協力すれば乗り越えられるはず。一応睡眠時間はちゃんと取れるようにしてあるし、時々四半月程度の休暇もある。

 

「私がいた場所では、一人前と呼ばれるようになるまで二十年の修練が必要と言われていたんだよ」

 

「……ええと、キイさんはそれを終えているんですよね?」

 

「そうだね」

 

一応博士号の授与が怪しいところではある。本人不在でも博士学位記授与式は行われたはずだし、向こうに私の死体が残っているなんてことはないはずだ。なにせ、向こうの世界で手につけた傷とその時に入った鉄粉が作った黒い筋が私の身体に残っているのである。よく見ないとわからないが。というわけで多分転生ではないのだ。知識とか記憶とかの連続性を考えるなら私の肉体をコピーアンドペーストしたとかも考えられるけど、場における特徴的なパターンにすぎない私を他の空間と切り取る明確な基準が量子力学的スケールではないはずなのでもしそれならかなり私たちと似通った知性がどういうわけか仕事をしたことになる。うーん、人が人に似せて神を作ったと思ってたのだが。

 

「あれ、そうするとかなり小さい時から学んでいることになりません?」

 

「子供の歯が最初に抜けるころから、かな」

 

「……それだけの間、ずっと学ぶのですか」

 

「いや、義務だったのは9年。普通は16年ぐらいかな」

 

「……そんなに、何を学ぶんです?」

 

「誰もに学ばせようとすると、それぐらい時間がかかるんだよ」

 

私の言葉に不思議そうな顔をするケト。ああ、こいつ才能があるからな。

 

「ケト君。人間はかなり愚かだし、変なことをするし、限界がある。いくら学んでも知識が身につかないなんていうのは、非常にありふれたことだ。意欲があれば、まだ良い方だなんてことも多い。学んでもいない、自分の知らないことを知っている人を感情的に否定するなんてよくあることだよ」

 

「……それは、わかっていますが」

 

「わかってないと思うよ」

 

ああ、そうだ。私だってちゃんとは理解していないんだから。私は、世界はずっと馬鹿ばっかりだと思ってきた。それに気が付かない自分が馬鹿であることに気がついたのは高校生の時だ。世界は普通の人間が、とても頑張って回している。ちょっと論理的パズルを解くのが得意だからって、それが誰かの役に立つわけではなければ意味がない。もちろん長期的投資の対象として、あるいは社会からの隔離のためとしての大学における基礎分野とか直接役に立ちそうにない分野への助成とかは必要だけどさ。ここらへんは自分が学ばせてもらった立場である以上は自分に対して謙虚にならねばならない。もちろんお前のやっていることは無意味だなんて言われたら戦争だが。

 

「……それを踏まえた上で、様々な計画を立てる必要がある、と」

 

「そう。ハルツさんに言われて気がついたけど、私やケトが触れてきた人は皆優秀な人ばかりだ。それを忘れないようにしないと」

 

ケトはまだそこらへんが飲み込めていなさそうな顔をした。うーん、天才に心折られるのも大切だけど、愚かさに道を塞がれる経験もあったほうがいいのかな。もちろん最後まで経験しないで済むに越したことはないわけだが。

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