この世界の人類が私の知るヒトと区別がつかないほど同一であるならば、特定の化学物質に対する嗜好性も同様に存在すると考えられるだろう。
「麦蜜か?」
頼んでいた荷物を運んできてくれたトゥー嬢が竈の前の私を見て言う。
「ええ」
買い込んだ発芽麦を砕いて水に浸して加熱。熱加減は温度計で測定する。正確な目盛りはともかくアルコール温度計は既に作ってあるのでこれを使えば麦芽糖は作りやすくなる。
「……で、それとこの硫酸がどう関係するんだ?」
「この甘さを作っている成分を酸で分解するんですよ」
自然界に多く存在する糖の中で、甘みが強いものの一つが果糖である。文字通りに果物に含まれるのだが、これを抽出するのは少し面倒だ。そこらへんの土の中から放線菌とかを持ってきてグルコース-6-リン酸イソメラーゼをちょちょいと抽出できれば葡萄糖から異性化糖を作れるのだが、ここらへんの技術は未確立。仕方がないので葡萄糖で我慢しよう。
麦芽糖を加水分解すれば葡萄糖が得られるのだが、酵母をうまく単離できていないので酸で対応する。硫酸なら揮発性もそう高くないしええやろ。後で水酸化カルシウムを入れて硫酸カルシウムとして沈殿させる。pH調整がちょっと面倒だな。あとは真空引きしてほどほどに加熱してあげれば濃縮された葡萄糖水溶液が完成だ。加熱し過ぎると焦げるので注意。あ、真空引き用のポンプは機械式のものができています。これで水銀を使わずともある程度はできるようになったので便利。これを完全な結晶にまで育てるのは大変だろうし、乾燥させるのも楽じゃなかったので濾紙で不純物を除いて濃度を高める程度で勘弁してほしい。
「で、それは実際のところどういう味なんだ?」
「舐めてみればわかるよ」
私は予備実験で作っておいた欠片を入れた小瓶をトゥー嬢に手渡す。中にはちょっと茶色みがかった粉が入っている。
「……甘いな」
「これでも欲しかった甘さの半分とかなんですけれどもね」
ため息を一つ。甘蔗、甜菜、棗椰子、蜀黍、砂糖楓。蔗糖が取れる植物があればそこから転化糖を作れたのだが、調べてもあまりいいものがなかった。いや、多分地域によってはあるのだろうが。ここらへんは大規模な生物資源調査計画とか立てたほうが良いのかな。プラントハンターというやつだ。もちろん文化的軋轢とか面倒な問題を多く抱えると思うのでちゃんと商業的取引の形で行うことが望ましいだろう。相手の文化を尊重して、植物を見る目を持ち、かつ双方に利のある取引をできる人材?無理だな。まだ存在しない。いっその事船の民を相手に通信教育でもしたほうが人材育成ができるかもしれないな。文化の尊重と取引ができることは間違いないし。となると自然学者を外交局経由とかで船に乗せればいいのか。まあそれぐらいなら行けるか?
「で、これをどうするんだ?」
「果汁に混ぜて甘みを強めて、氷にします」
「……ああ、例の製氷装置か」
ジエチルエーテルの気化熱を利用した冷却システム。氷を作ることができるので、晩餐会の予定が入っている夏には間に合うだろう。ちょうどその時期に冷たいものはいいですからね。飲み物を冷ましてもいいのだけれども、ソルベとかのほうがインパクトが大きいと思いましてね。
「夏の氷菓子なんぞ、諸侯はおろか君主すら口にするのが難しいと言われたものだが」
あれ、そこまでのものだっけ?古代からそういうものは食べられていた記憶があるのだが。ああでも図書庫の城邦だと雪が降らないから氷室とか作れないのか。それだけの高さのある山もあまりないしね。平地が多いのは農業には良いが鉱物資源とかの観点からはあまりよろしいものではない。一応私の知っている食文化史では硝石の持つ負の溶解熱を使ったものがブルボン朝ぐらいにあったがはずだが、硝石は高いのである。まったく、色々と順番がおかしくなっているな。
「今ならできます。それもとびっきりの甘さのものを」
人は甘みに弱い。それはミトコンドリアを取り込むことで獲得した好気代謝システムが本能的に求めるものであるからだ。葡萄糖は焦性葡萄酸になり、TCA回路を経由してATPを生む。つまりはエネルギー源なのだ。それを獲得できなかった個体は淘汰され、貪欲に求める個体は生き残ってきた。基本的に自然界にはこういった糖が少ないので、摂取したら快楽物質が流れるようにできているし上がった血糖値を下げるシステムはインスリン系統以外は用意されていない。それほどまでに重要なのだ。
これを悪用させてもらおう。きっと後に肥満と糖尿病と虫歯の原因になるだろうが、まあそれは代償として甘受してもらうしかない。というか普通は一食程度こういうものを味わっても特に問題ないはずだ。まあ暴走してプランテーションのために奴隷集め始めるとかされたら話は別になってくるけど。