図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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名前

これは?

 

「これは盆です」

 

これは?

 

「これは包帯です」

 

これは?

 

私は指を扉の方に伸ばす。少年は一瞬だけ悩むそぶりを見せるが、すぐに答えをくれる。

 

「██████は扉です」

 

表現が変わった。パンと匙と椀に共通して、扉が仲間外れとなるもの。おそらくは話し手からの距離。日本語では「これ」「それ」「あれ」の三つ、英語では「this」「that」の二つの種類の組が指示語には存在する。学習の初期の段階でこういう言葉の使い間違えはよくあるものだが、少年はうまくそれを訂正してくれた。私に近い包帯が「これ」と呼べるということは、指示語の種類はそう多いわけではないと予想できる。

 

あれは?

 

「あれは█████████……いいえ、████です*1

 

二つの単語が出てきた。たぶん窓に関する単語がいくつかあって、そのうち簡単な方の語を教えてくれたのだろう。こういうところで彼は結構気配りをしてくれているように思える。

 

ともあれこうして手当たり次第の単語を聞いてから、少し頭の中で整理を行う。私の少ない知識と比べても、同系統の言語は存在しない。単語同士に特別なつながりはないように見える。少なくとも、見る限りでは少年の使っている言語はかなりしっかりしたもののようだ。人工言語であるとしたら作者は相当頑張っている。

 

「いいえ、これはkhet。はい、███はkhet*2

 

落ち着いたところで、少年が自分の顎を指して言う。少し慣れない発音だ。言語によってはxと書かれそうなものだが、khと転記するほうがなんとなくわかりやすい気がする。奥の方に舌を引っ込めて、空気を流す感覚。カタカナで一番近い表現は「ケト」だろうか。というより自分を指すときにはそういうやり方をするんだな。こういうジェスチャーは文化で異なるのできちんと覚えておこう。

 

っと、先程まで「これ」に相当していた場所が変わっている。となると今まで指していたものとは異なる特徴があるはずだ。私でも察しが付く。対象が人間であるということ。わざわざそうしてまで伝えたいものはあまりない。これは名前だ。

 

で、ここで大きな問題が起こる。私はなんと名乗るべきだろうか?

 


 

多くの文化において、名前には特別な意味がある。例えば日本も含まれる東アジアの文化圏では「(いみな)」として、それ以外の地域でも様々な方法で直接的な言及を避けることは見られる。もちろんそれでは面倒なので何らかのあだ名であったり通名を用意したりするのが普通である。また姓がなかったり、洗礼名というものがあったり、まあここらへんは大変なのだ。

 

こういう場面でちゃんと自分の名前を言わないと問題がある文化かもしれない。ただ、彼が名乗った音はそう長いものではなかった。人名の長さというのは結構様々だったよな、と私は記憶を探る。日本だと姓と名だけだが、イスラーム圏とかでは先祖の名前を付けることで出身を表すことがある。そういうものではなく、ただ一語で名前を表してよいという文化というわけだ。よかった。きちんと名前を全て言わないと失礼に当たるとかではただでさえ新しい単語でいっぱいの頭にこれ以上の負荷をかけることになる。

 

「████は?」

 

私の顎に向けて少年が二本の指を伸ばす。指差しは別にタブーではないようだ。そしてこれはたぶん「あなた」を意味する単語。さて、名前を聞かれているわけだ。

 

本来は女性名として適切なのかとかを考えねばならないのだろうが、まあ今の時点で詳しくやり取りができない以上決め打ちで行動するしかない。もし名字のない文化であった場合、あるいは名字を持っていることが特別な地位や血筋を意味してしまうようなことを考えると少年の名乗った「ケト」と同じぐらいの長さ、二音節程度の語がいいだろう。あからさまに下品なものであったりする語を引き当ててしまう可能性はあるが、まあ無視していい。こんなところにまで気を配っていては疲れてしまう。

 

私はキイ。あなたはケト

 

キイというのはある意味では本名の一部であり、昔からネットで偽名を必要とするときなどに使っていたのもあって案外馴染みがある。口にしても違和感がないのはいい。発音としても日本語にも英語にもある見られるものなのでまあそこまでおかしくはないだろう。

 

「あなたはキイ。僕はケト」

 

少年が同じように返す。うん。たぶんうまく行った。

 

私はキイ。あなたはケト

 

「はい」

 

ちゃんと私が言っても問題ない。これで呼びかけができるようになった。だからと言って特別何かが変わるわけではないだろうが、少なくとも恩人の名前はしっかりと覚えておきたいものだ。

*1
窓枠……、いいえ、窓です

*2
注: ここで少年が使っている東方通商語の一人称はおもに若い男性(もしくは育ちのいい男性)が使うものであり、女性が使う場合には違和感を持たれることがある。なので語り部である「私」が東方通商語で話す時の一人称は「僕」と訳すべきであるが、少年の発言との混乱を避けるために原則として地の文と同じ「私」を用いる。

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