図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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櫛比

騒がしい中を、できるだけ周囲に意識を向けないようにして進む。耳に入る言葉の響きは東方通商語のものだが、それ以上はわからない。ああ、本当にきちんとわかっていなくてよかった。こういう場所にいると時間が溶けてしまう。

 

「キイさん!」

 

ケトが私の腕を叩くように触れて、よく通る声で言う。

 

「なに?」

 

「そろそろ左です!大通りなので」

 

「わかった」

 

この雑踏なら掏摸(スリ)も出るだろう。素人が長居するのは危険だ。

 

鼻孔をくすぐるのはメイラード反応でできた化合物。聞こえるのは交渉の声。それらがふっと薄くなって、涼しい風を感じた。

 

「……抜けましたね」

 

「うん」

 

人が一気に少なくなった。たぶん商業区域というのがあって、屋台で様々なものを売ることができるのだろう。

 

「ここで何かを売るのって、特別な許可がいるの?」

 

「いいえ、この街ではそういうものは減らされています」

 

おや、比較的自由市場に近いのだろうか。

 

「詳しく聞ける?」

 

「僕が話すより、あとで専門の文書を読んだほうがいいですよ」

 

「どうせ聖典語でしょ?」

 

「いえ、たぶん市場に関することなので東方通商語のものもあるはずです」

 

うわぁ、面倒だ。

 

「……で、この近くのはずです」

 

先ほどの屋台道とは違って、静かだった。建築デザインもあるのだろうか、比較的統一されている。道の綺麗さもあるのかもしれない。石造りの道に、三階建て程度の間口があまり広くない建物が隙間なく並ぶ。たぶん奥行きがあることで延床面積をとっているのだろう。ここらへんはヨーロッパの都市に似ているな。都市人口が増加すると、都市の面積を広げるか人口密度を上げる必要が出てくる。前者は城壁の拡張が面倒なので、建物を上に増築することで収容人数を増やすのだという話を昔どこかで見た。

 

そんなことを考えていると、道路の左側の壁から扉がなくなっていた。とすると、ある程度大きな建物か。

 

「たぶんあれですね」

 

ケトが指さした先に門があった。幾何学的な装飾が施されている。垂直に刻まれた溝はどこまで実用的なものかは分からないが、雨の痕がないところから見て清掃が定期的にされているのかもしれない。

 


 

「この衙に用があるのか?*1

 

筋肉がよくついた見張りらしき男性の一人が私たちに声をかける。あくまでも丁寧な口調だ。

 

「はい。これを」

 

ケトは懐から紹介状を取り出した。

 

「『第四区第八小衙堂長たる司女のハルツの名によって紹介を受けました』*2

 

聖典語だ。このくらいの定型文なら聞き取れる。紙を開いて、きちんと確認しているところを見るときちんと文字が読めるのか。

 

「承った」

 

彼は紹介状を丁寧にたたみ、ケトに返す。

 

「担当のものを呼ぶ。しばし待たれよ」

 

そう言って見張りは門の先の建物に入っていった。

 

「おもったより、すんなり行ったね」

 

私は呟くように言う。

 

「……この先は、どうにかなるとハルツさんは言っていましたが」

 

「あの人の言葉、そこまで信じられる?」

 

「難しいところですね……」

 

いい人なのは、間違いないのだけれどもな。

 


 

「初めましてケト君にキイ嬢。この衙堂で様々なことを、例えば君たちのような学徒の世話をすることを生業としている。よろしく頼む」

 

通された部屋で出迎えてくれたのは、痩せた中年に見える男性だった。

 

「さて、君たちはどれほど説明をハルツから受けた?」

 

机の向こうから飛んでくる鋭い視線から研究者にたまにいるタイプだな、と私は考える。職務に対しては有能。それ以外に対してはまだノーコメント。

 

「彼女を知っているのですか?」

 

少し驚くようなケトの声。

 

「昔勉強を教えていた。……教える側としては、扱いに困るやつだったがな」

 

世間はなかなかに狭いものだ。かつての学会を思い出す。変な分野に顔を出しても、大抵誰かが知り合いの知り合いだったりするのだ。こうして界隈で私の悪名が轟いていくのである。

 

「僕はある程度の話を聞きましたが、あくまであなたの事を知らない程度にしか聞いていません」

 

「なるほどな。そちらのキイ嬢はいかがかね?」

 

軽く息を吐く。柄にもなく緊張しているようだ。

 

「この地は異境なれば、決して慣れているわけではありません。そのため、何か見落としがあるかもしれませんので説明を頂ければ、と思っています」

 

「……そうか。ケト君、君のことはハルツから伝わっている。優秀だそうだな」

 

「ただ古典を学んだだけに過ぎません」

 

「それから新しいものを生み出せるのは力だよ。先に出した収穫報告、良かったと聞くぞ」

 

げ、あれそんな噂になるぐらいまで広まっていたのか?

 

「評価誠に感謝いたします。しかしながら僕が成したのはあくまで筆を動かしたことであり、このキイ嬢から学んだものです」

 

「ほう。……さて、キイ嬢。不躾な質問になるが、君は来歴を語れないそうだな」

 

「……ええ」

 

例え本当のことを言ったところで、信じる人がどれだけいるだろうか。異世界転生者の存在と、狂人が吐く嘘の可能性であれば明らかに後者のほうがありえそうだ。

 

「ならば、それなりの力を示してもらおうか。東方通商語には不慣れと見えるが、聖典語は?」

 

「『未だ学びて僅かな刻しか経たぬ故、活用の一つも覚束無いほどで』」

 

男性は少し耐えた後、いきなり咳き込むように笑った。なんだい、聖典語でこういうことを言うのがそんなに面白いか?*3

 

「悪くない。何を得意とする?」

 

「算学や薬学であれば、ここでの流儀とは異なりますが一通りは」

 

「それはいい。外来の知恵を取り入れるのがこの城邦の、そして自らを褒めるようになるが衙堂の良いところであると思っている」

 

男は改めて、私たちを見た。

 

「図書庫の城邦へようこそ。君たちについては、衙堂の名によって保護を与えよう」

*1
「衙」は「衙堂」に比べて建物を指すという側面が強い単語の訳として用いた。

*2
以降、特記なき限り二重鍵括弧でくくられた部分は聖典語の単語あるいは文章を意味するとする。東方通商語への借用程度であればこのような表記はしない。

*3
なお、ここでのキイの発音はかなり流暢であった。

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