図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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民族

ここではその動物を馬、と呼ぼう。古帝国は最初、遊牧民の支配下にある地域や都市の集合であった。図書庫の職員が出してくれた資料によれば、厳密には二種類の動物の総称だったらしい。羊と牧羊犬みたいなものに近い。しかしそれなりに近縁だったそうで。いやこれは本題じゃないな。

 

私が少し前にハルツさんに言ったことを思い出す。馬の消失が通信速度の低下をもたらし、崩壊を導いた、と。だいたい間違ってはいないらしい。しかしそれはゆっくりともたらされた。この動物は近親交配によっていくつかの特徴を発現させていたが、これを調整するのは非常に大変だった。しかし、そのノウハウは帝国の拡大とともに失われていった。図書庫はその知識を伝えようと様々な手を打った。当時既に各地に散らされていた「名前を忘れられた民」の協力もあった。しかし、衰退を止めることはできなかった。

 

その頃には既に古帝国の政策が有効に機能していた。多くの民族移動の誘導や、緩やかな文化の書き換え。宗教指導者階層の役割を「名前を忘れられた民」が始めた衙堂とすり替えさせ、各地の反乱を鎮圧した。反乱した人たちは新しい土地に、できるだけバラバラにされて送られた。こうやって生まれた植民都市で生まれたものが東方通商語らしい。まあともかく、そういう頃になってくると民族みたいなものではなく、土地にアイデンティティが生まれるようになっていった。

 

土地によるアイデンティティのいいところは、統合に強いイデオロギーが働かないところだ。例えば民族というものがあれば、同じ民族を同じ国のもとに、という考えが生まれる。この考え方が生まれうることがかなり昔から真剣に議論され、十分警戒すべきものとして認識されていた。だからこそ、古帝国は多民族国家を目指さなかった。それを目指すということは、民族の存在を認めるということだからだ。

 

「……キイさん、わかります?」

 

「わかるよ、私がいた世界では、この考え方のほうが普通だったから」

 

ケトが噛み砕いてくれた説明を史料で補強していく。先行研究があったのはありがたいが、私の知っている歴史と比べるとその論点には少し粗が見える。いや、本来ならもっと先に起こるようなことを予言していたと考えると凄いことなのか。

 

「人間は、どうしても他人との、他の集団との区別をしたがる。もちろんそこに違いはあるんだけど、共通点も多い。それを教育で気がつかせる、というのは……考えても、できるようなことじゃなかった」

 

民族の解体、というのは大仕事だろう。違う思考を、違う慣習を、違う言葉を話す人が隣りにいるというのは嫌なものだ。そして、たいていそこからは同じようなつながりを持った人たちの集団が生まれる。衙堂はそういうものができるたびに、聖典を手に潰していった。新しい人を受け入れましょう。溜まった水が腐るように、人の出入りが失せた集団は悪くなっていくものなのですから、と。とはいえ平等みたいな観点からの女性への権利付与自体はあまり進んでいないな。これは純粋に育児の割合が大きすぎたせいで自動的に区別がついてしまったから、と考えるべきだろう。つまりここらへんを改善すれば使える人的資源を増やすのは文化的にもそう難しくない、と。

 

「ケトくん」

 

「はい」

 

「この考え方、どう思う?」

 

「どう……と言われましても、まあしっくりは来ますね」

 

「なるほど」

 

私がかつていた世界では、これはディストピア扱いされそうな発想だった。というか民族という考え方自体が根付きすぎてしまったのだ。まあ人権みたいな概念も同じぐらい根付いていたのでどっちがマシかと言われると判断はできないが、先見の明ではこの世界のほうが上だろう。

 

「これ、誰かが一人でやったんだと思う?」

 

「キイさんみたいな人が、ですか?」

 

「そう」

 

私以外にも転移者がいた可能性は十分にある、と考えていたが明確なものは今まで見つけることができていない。私だってそうとう色々なものを残しているのだ。その可能性を知っている人がもしいれば、別の世界からやってきた存在を疑うだろう。しかし、私はそれを知った上でなおこの政策が個人によってなされたものだという実感が湧かなかった。

 

「違うと思いますよ。少しずつ方向を修正していっています。もしそういう人がいたとしたら、それはかなり最初の方に全ての計画を策定したはずです。でもこれは、きっとそうじゃない」

 

「……凄い、な」

 

これは多分、本来なら人類史に残る偉業に入るのだろう。巨大な構造物の作製とか、大規模な鉄道網の敷設とかといったような。しかしこれを意識的に、文化方面で行うというのは恐ろしいことだ。

 

「……ただ、知ってしまった以上、これを引き継がなきゃな」

 

「あれ、てっきり全部壊すとかするのかと」

 

「壊したいの?」

 

「いいえ。けれども、キイさんがやろうとしていることはこれを壊しかねないものでしょう?」

 

教育のための言語の統一とか、思想の伝播を容易にするとか。確かに、私の知識の中にあるナショナリズムの発達に必要なものを私はやろうとしているし、実際いくつかは動いている。

 

「先人には敬意を払うべきだし、これはかなりうまく行っている。……私みたいな余所者が、たとえそれが嫌いだとしても壊すべきじゃないよ」

 

思考を切り替えよう。この延長線上での教育システム、か。まあ、起こりうる問題はいくつか知っているからそれを止める経験をさせればいいな。

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