図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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学徒

図書庫の城邦には、海を超え山を超え数万とも言われる学徒が集まる。私の知識に照らし合わせるなら、かなり大きな学術都市だ。そしてその学徒から授業料を取ることで生計を立てる数千の講師がおり、その上には図書庫から直接給与を得ることのできる講官が数百人いる。少ないポスト、博士研究員、任期付雇用。おかしいな嫌な記憶が蘇る。

 

「学舎と学徒寓が並ぶのが南側。港が並ぶのが北西で、東にあるのが工匠区だ。ここまでは良いかね?」

 

説明をしている男性が話を止めて私たちを確認するように見た。

 

「……ええ」

 

私は頭の中で急いで地図を練り上げる。ケトは素直にうなずいているところを見ると、たぶんこのレベルの話は聞いていたのだろう。

 

「城壁の中であれば、衙堂が君たちの身柄を保証する。当然明らかな罪を犯したものを庇うことはできないが」

 

「外に出たら、どうなるでしょう?」

 

ケトが質問を投げる。

 

「……多くの学生は誘惑に耐えられない。夜の愉しみに溺れ、身を壊し、学徒としての本分を忘れる。意味はわかるかね?」

 

私は頷く。ああ、大学でよく見たやつだ。飲み会、パチンコ、麻雀、競馬、そして異性。うん。どれもやったことがないな。健全すぎる大学生活を送ってきたせいで存在は知っていてもその恐ろしさはよくわからない。大学院時代に席を並べて学んでいたバケモノの中にはこういうものに触って平気だったやつもいるが、私はたぶんハマれば抜け出せなかっただろう。ただ、これらより研究のほうがよほど人生を壊す気がする。

 

「用心します」

 

良い返事をするケト。

 

「よろしい。さて、いくらかの学徒は講師への支払いと学徒寓で暮らすために働くことになる。衙堂の蔵に尽きぬ銀片なし、ということで衙堂も君たちがここで過ごすために必要な全ての資金を出すことはできない」

 

前にも聞いた言い回しだ。たぶん定型句なのだろう。

 

「故に、君たちは働く必要がある。商会や工匠区で働くか、あるいはこの衙堂の司士や司女としての身分を得るか、あるいは講師となるかだ」

 

「講師になれるのですか?」

 

「もちろんだ。この城邦では、届け出を行う限り何人であっても講師となることができる。事実、僕もかつて講師としてハルツに文法学と地理学を教えていた」

 

私がした質問への解答から考えると、この城邦はかなり色々自由なようだ。となると講師から学ぶ場合ハズレを引かないように注意しなくてはいけないということになる。

 

「授業料はどれくらいなのでしょか?」

 

ケトの問いかけに、男性は少し悩む。

 

「そうだな、特に良いとされる講師で月に銀片八つか五つ、中には銅葉一つで半日教えるというものもいる。……が、これらは特別だ。実際は銀片二つか三つといったところだろう」

 

結構高いな。かつての世界の大学の学費程度か。

 

「働くならおすすめは衙堂だ。なにせ人手が足りない。新しい聖典を編もうとしているらしいが、収穫の集計も済んでいないのに馬鹿なことを」

 

おっと、毒のある言葉。末端管理職の悲哀を感じさせる。

 

「学徒の世話役と聞きましたが」

 

そう聞くケト。

 

「ああ、それもしている」

 

「……なるほど。務め人の辛いところでありますか」

 

察することのできた私は哀しい男とともに溜息を吐く。

 

「故に人手が欲しいのだよ。なあに、慣れてしまえばそう難しくはない。あの収穫報告を作れたのであれば、すぐにでも働ける」

 

「では」

 

「今しばし、考える時間を頂けないでしょうか」

 

ケトを手で制して、私は言う。

 

「構わない。むしろ、旅の後にいきなりこのような選択をすることのほうが酷なことだ。脚を拭い、今日は休むといい。衙堂の宿舎と食堂を使えるよう手配しよう」

 

大学で文系に進んだ理由は学会の後の懇親会でご飯をご馳走になったからだった。さて、私は一宿一飯の恩を忘れることができるだろうか。

 


 

四つの寝台がある部屋で、泊まるのは二人。夕食時まではまだ少し時間がある。

 

「これでいい?」

 

ケトの脚を濡らしたぼろ布で拭きながら言う。結構土や埃で汚れていた。皮が分厚いな。

 

「……すみません、拭かせてしまって」

 

「いいのいいの」

 

「それで、どこで働きますか?」

 

「ケトくんは、どうしたい?」

 

「僕は衙堂が良いと思います」

 

「私もしばらくはそうした方がいいと思うな」

 

「なぜです?」

 

「衙堂であれば、すでに私たちには実績がある。それ以外ではまず自分の実力を示すところから始めなければいけない」

 

「もし他で働くとしても、衙堂で働いていたということは使える……と」

 

「その通り」

 

指の間も綺麗にしながら私は言う。

 

「僕には会いたい講官がいます。授業を受けられるかどうかはわかりませんが……」

 

「いいことだね」

 

私は大学に入ってからアカデミアのシステムを把握した。母がその界隈の人であったが、そういえばあまりそういうことは教えてもらわなかったな。

 

「キイさんは、やりたいことがありますか?」

 

「市場を見て、ここに無いものとあるものを知りたい。動けるのはそれから」

 

「……やはり、社会を変えるものを作りたいのですか?」

 

「それがないと面倒だからね」

 

まあ、手早いところであれば衙堂の業務でも使えるところから改良を進めていける。上司はあの男性になるのだろうか。そういえば名前を聞いていなかったな。

 

「わかりました。それを手伝えるよう、できるだけ学びます」

 

「あまり気負わなくていいよ。必要なら私だって学ぶ」

 

「聖典語から?」

 

「そうだね。……やっぱり、わかるのは羨ましいな」

 

「経験です。キイさんの脚も、綺麗にしますよ」

 

私の手から布を奪うように取って、ケトは言った。

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