図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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公衆衛生

思想の強い講義、今日のテーマは公衆衛生。統計と医学と政治とが関わる面倒な分野である。なおその道の専門家がここに来ているので正直無茶苦茶怖い。図書庫の城邦有数の若き算学師と、図書庫の城邦の医学師の中でも有数の政治力を持つ人と、あと頭領。なんであなたが来ているんですか。暇なんですか?

 

「今日は人が多いけど、いつも通りやっていく。最近になって行われた出生と死亡の情報の集約は、色々と面白いことを示している」

 

このデータを黒板に描くのはちょっと面倒なので指を鳴らすと、アシスタントのケトが電気を消して投影機をつけてくれる。なおケトが内通者だということは結構すぐ知られるようになったが、そのせいで裏切り者扱いはされていないらしい。よかった。かわりに被害者の会の名誉会員らしい。

 

というかこの被害者の会がある種の派閥になっているそうで。確かにあらゆる分野に関係者がいる若手中心の集団、歴史的に面白い影響をもたらしそうだ。しかし私がその指導者か。こういうのって政府中枢の暗殺計画立てるといいんだっけ?日本史は科学技術史に関わるところしかやってないから知識が偏りすぎているんだよな。

 

「地域によって、かなり乳児死亡率が異なる。個人的には、この理由は食事に思える。社会階層で分けてもそうだ」

 

このデータ自体が政治的な色々の問題を引き起こしかねない代物なのは承知の上だが、ここにいるのはその事実自体に文句を言うだけで終わる人ではない。根拠を補強し、成功事例を調査し、利害関係を調整し、代案を提示し、長期的な予算を用意し、知識を普及させ、測定を続けていくように、教えている。そうでなければ、ただ問題を指摘するだけの怠惰な人間になってしまう。

 

もちろん、それを悪だと言えるほど私は人間の強さを肯定できない。しかし、ここにいるならばそれぐらいは最低限やってもらわねば困る。愚痴なら一人で呟いてくれ。変える方法は教える。道筋も整備しよう。しかし、そこを進むのはお前なんだよ。お前しかいないんだよ。私はやった。お前もやれ。まあ、こういう思想の強い講義なのである。

 

「大きく死因を分類してみよう。一つは老化による虚弱に起因するもの。これは多少は抑えられるだろうが、時間がかかるだろうしすぐに成果は出ないだろう。次は流行病によるもの。これについては予め防げる可能性がある。興味深い研究が最近生まれた」

 

病原菌のようなものの発見が最近「総合技術報告」に掲載された。個人的には怪しい気もしているが、ある特殊な色素で染まる微小生物が血咳病患者の痰からしか見出されないというもの。主題は色素の作成方法だったが、まあこれはいい。藍色の色素の熱分解を含む過程で得られるというからアニリンっぽい何かなのかもしれないな。

 

使える色素を片っ端から調べたというから面白い。もとの菌は好気培養できたからそう困らなかったらしいが。これについてはスライドで説明する。新しい技術を学ぶのも重要だからね。なおこの研究を行った薬学師にちょっとアイデアを出したのは私である。

 

「それと労働によるもの。こういうものの一つに砂病みというものがある。これは肺から得られる特有の音で弁別されるものだ。こういった病は対策を行えば減らせるだろう。実際、この二つの鉱山の例を見ればいい」

 

塵肺の発生者数の違いだ。一つは高湿の地域のもの。もう一つは乾燥した地域のもの。特殊な捕獲装置で得られた空気中の微粒子の密度推定。

 

「ただ、こういうものをどこまで減らすかは難しい。君たちが自覚せねばならないのは、対策を取らないということは誰かの死を認めるということだ。しかし、対策をすればその分他のことに使えたかもしれない費用が減る。例えば、飢えた妊婦が無事に子を産めるよう支援する事ができなくなるわけだ」

 

面倒な二者択一ではあるが、これは単純化した例だ。実際には救いやすいが稀な例もあるし、一般的すぎるがゆえに気に留められない死もある。ただ、統計ではどちらも同じ1として扱われる。そう言ったところで統計にも限界があるのは忘れてないけどさ。

 

「私が個人的に指標としたいのは出産による母親の死亡率だ。この程度を目安として、これを超えるようなら危険な労働とみなすべきかもしれない」

 

なおこの方針で労働基準が定められた場合、私の勝ちになる。なぜなら死亡率を減らすいくつかの方法を知っているからだ。産科鉗子であったり、消毒であったり、あるいは栄養学であったり。ここらへんはまだ発達途上だが、少しづつ基礎データの蓄積は始まっている。

 

「人の死は、様々な意味で悲惨だ。それは本人にも、周囲の人にも苦しみをもたらす。労働力が減少し、知識が失われる。つまり、これは多くの人にとっての害であるが、この対応のためには大きな力が要る」

 

だから、公衆衛生は政治なんだよ。政治とは、率直に言ってしまえば誰を殺すかを決めることだ。政治の選択で、誰が死ぬかは統計的な数字として変化する。そして、数字の裏には人間がいる。

 

「この分野を机上演習で扱うことがあるかもしれない。統計の分析手法については、最低限は理解しておくように」

 

今までどうしようもないと思っていた死が、見殺しにされた死となるのだ。それだけで不満は生まれる。しかし、これはより大きな幸福のための避けられない不幸なんだ、と私は自分に言い聞かせる。それが本当かどうかは、これから証明されていくだろう。


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