「農業についてはこの本を読んで下さい。以上」
私はハルツさんの本を掲げる。……教室の反応はあまり良くない。笑ってほしかったんだがな。
「冗談ですよ」
そういうと笑い声が出てきた。よし。ジョークのセンスの問題ではなかったようだ。
「実際の所、農業はほとんど注目されてこなかった分野になる。最も多くの人が手にしている職であり、あらゆる地域において不可欠なものにもかかわらず、ね」
一応統治学の一分野として存在していなくはないが、収穫量の計算とか植物ごとの水はけへの注意とか地域によって適した栽培方法とか、その程度でしかない。ま、私の世界でもアルブレヒト・ダニエル・テーアとかユストゥス・フォン・リービッヒが出るまで結構時間かかったからな。まあ毎度のことながら中国はなんか数百年バグっているが。
「具体的な方法については、今後調べていくことが必要になると思う。というわけで、私が話せるのは一般的な理論になるよ」
一応農業史はやったことあるけど遺伝子組換えとかのあたりの話とユストゥス・フォン・リービッヒの研究とかだからな。あまり参考にはならないし、参考にしてほしくはない。
「まずは自然学の話から。同一の種として扱われる植物でも、一つ一つの株には違いがある。背が高いもの。あるいは低いもの。これには複数の原因が考えられるだろうね。例えば気候や雨量によって高さやその散らばりが変化するかもしれない。代表となる値とそこからの散らばりの程度の計算方法……は、まだやってなかったっけ?」
確か本にはなってたはずだけどあれかなり専門的内容だったからな。見渡したところ少ないのでしていないのだろう。
「じゃあこれは今度やろう。かなり重要な考え方なので知っておいてね」
後で確認して正規分布の式の導出をしておかないと。一応、位取り表記法は全員加減乗除レベルで使いこなせるので問題ないか。追いつけなかったら自学自習してもらおう。というかここに来ている人間はそれができるから教える側としては楽でいいね。怠慢である。
「なので、作物は様々な方法で調べられることが望ましいわけ。どれぐらいの間隔で植えた?水はどれぐらい湿らせた?あ、湿り気については煆す*1ことで水分を飛ばしてその重さをもとの重さから引けば水の量を測定できるよ。何日ぐらいで、どこまで成長した?丈はどれぐらい?一株から得られる収穫物の量は?まあ、別にこれは農業やる人が自分でやる必要は薄いけど」
「では、誰が?」
「司士や司女」
嫌そうな顔をする衙堂関係者と頷くそれ以外の皆様。あ、これ仕事内容の共有ができていないやつだ。
「そこの君。司士や司女がこういう事をする際の欠点は?」
「ただでさえやる事が多いんです。これ以上増やすんですか?」
「農作物の収穫量が増えれば司士や司女は多少は増やせる。あとは専門の人を作って、仕事自体を効率化していけばまあ、そこまで大変にはならないはずだけど」
私の言葉に首を捻る学徒。ええと、つまりは私の説明不足だな。ちょっと落ち着こう。
「んー、何が知りたい?」
「収穫物の量と司士や司女の人数の話です」
「ああ、なるほど。なら説明できるよ」
私は線分を黒板に描く。こういう割合とかの概念を最初学徒は受け入れられなかったがしばらくしたら慣れてくれた。まだ私の脳には学習指導要領ベースのカリキュラムの記憶が残っているので本来小学5年生でやるような内容を理解できていない人を見ると認識がバグるのだ。ここでおかしいのは自分である。
「一つの地域が作ることの農作物をこれ全体とするよ。税としての回収分も含めて、例えば二百人分の麦を作れるとする。あ、ここで考えるのは麦だけだとするよ。人間は麦しか作らないし、麦を食べれば生きていける。よろしい?」
頷く学徒たち。こういうモデル化についても理解できるようになってきているのはいいことだ。こういう概念は思考を広げてくれるのだ。正直私は影響力を過小評価してこの世界に色々な考え方をばらまいてしまったかもしれない。不可抗力にならない?責任取る必要がある?とはいえ責任のとり方なんてちゃんとした教育システムを整えることぐらいだしそれは現在進行形でやっている。
「で、地域で農業を営んでいる人が八十人とする。このとき、百二十人分の食料が余るのだ。実際は子供がいたり老人がいたり、あるいは鍛冶とかで農業をしていない人もいるわけだから、百二十人分が地域で消費されるわけだ。そして、八十人分が外に出ていく。まあ、基本的には税だね」
この世界の交易システムは通貨だが、農村地域では通貨が流通していない。ではどうするかというと衙堂が買い取りもやっているのだ。ここらへんは地域差があるので専門の人の講義に任せよう。
「この税を司士や司女が食べるわけだ。では、もしここで仮に八十人で三百人分、今より半分だけ多く生産できるとしたら?この数字は実はそこまで無茶なものではない、はず」
数直線を伸ばして、新しく生まれた分をぐるぐると囲む。
「例えば農業に従事する人が減るかもしれない。税の割合が高くなるかもしれない。いずれにせよ、農業以外を生業とする人が増える。その中には司士や司女もいる」
小作農は都市へ。そして都市の人口が増える。これが起こると面倒事も誘発されるので、農業生産の増加は自覚的になされるべきだというのは私の持論。
「……わかりました」
「よっし」
謎を解けたようでなによりだ。私のいた世界と常識とか基礎教養とかが大きく違うので、そこで躓かれるともったいないからね。