図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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円周率

「……つかれた」

 

寝台に座る私の腿の上に頭を置いたケトが言う。彼ももういい大人なのだが、まあかなり昔からの関係なので別にいいし私だってやりたい。こんどさせろ。自分の年齢からは目を背けて生きていきたい。

 

「あの面倒な算学のやつのせい?」

 

「面倒って意識していたじゃないですか」

 

私は息を吐く。ま、ケトになら裏話をしてもいいか。

 

「……円周と半径の比、ってわかる?」

 

「6.28ぐらいでしたっけ?」

 

「そう。微分とか逆微分において、こういう数は結構出るのよ」

 

$\sin x$ の微分とかはまだできていないが、虚数の概念はあくまで概念上のものとはいえ示しておいたのでしばらくしたら指数関数と対数関数の関係式が出るだろう。

 

「幾何学……というか、工作では大抵直径との比のほうが重要では?」

 

「まあね、なのでここでちょっと修正を入れた。算学はあまり俗世に縛られない方がいい」

 

$\tau$ 。純粋に数学的に見れば半径と円周の比を考えたほうが色々とやりやすくはなる。

 

「あとはまあ、正確な比を求める努力の誘発とでも言うかな……そういうのもしたかった」

 

ケトは不思議そうに私に目線を向ける。

 

「ええと……その比って、多分5桁か6桁ぐらいしか知られていないよね」

 

「確か。それでもかなり複雑な計算が必要だったはずですが」

 

「私は100桁覚えている」

 

「……何の意味があるんですか?そしてそれはどうやって計算したんですか?」

 

「ええと、ちょっと待って」

 

頭の中で過去に見た年表を思い出す。$4 \arctan \frac{1}{5} - \arctan \frac{1}{239} = \frac{\pi}{4}$ というマチンの公式あたりでそれぐらいの桁数が出たっけ?ウィリアム・ジョーンズが円周率を $\pi$ と置いたのが同じぐらいだったか。

 

「前にやった関数を多項式に置き換える方法を覚えている?」

 

「微分したものと、それをさらに微分したものと、それをさらに……としたものとが一致するように係数を定める、でしたっけ」

 

「そう。それを応用して、比を出すような式を作る。そうすれば幾何学的な方法を使わなくてもいい」

 

「図形的なはずの比を計算で求められるのは変な気もしますが……で、何の役に立つんですか?」

 

「特に意味はない」

 

実際私が覚えたのも円周率暗唱できたら賢そうだったから以上の理由はない。なのでちょっと面倒な過去ではある。

 

「ですよね」

 

「ただまあ、計算力を誇示するためとかかな。電気で動く精密な装置で計算させて人が一生かけても唱えられないほどの桁数を出せた」

 

「愚かなんですか?」

 

「あまりそういう言い方は良くないよ」

 

私はケトの頭をぺたんと叩く。髪が柔らかいんだよな。

 

「……すみません」

 

「まあ、詞を作るようなものだよ。詞を作ることに楽しいぐらいしか意味がないとしても、それは愚かな行為ではないでしょ?」

 

「いえそもそも人間は愚かでは……」

 

おっと私の隠していた危険思想がうつっていないか?

 

「ともかく、そういう算学についての考え方みたいなものを持っておくと後々便利なんだよ」

 

実際私がそうだった。理系上がりで定量的アプローチに慣れていたのでそっち方面でデータを分析するだけで先行研究を轢き潰せたりした。やはりデータは正しいのだよ。まあ経済史のあたりでその分野の専門家から取った手法があまり適切じゃないよと突っ込まれた時には背筋が冷えたが。

 

「……わかりました。逆に言えば、もうそれぐらいしか伝えることがないんですか?」

 

「いや、あるにはあるんだけどそれは別に私がやらなくてもいいかなって」

 

やっていない事で、私の知識のなかにあるものはそれなりにある。まあでもそれらは必須というわけではない。特に人文科学系はその世界や文化での発展があるわけだし、危険思想でなければ別に止める必要もないだろう。

 

「……なるほど。それでも聞かれたら助言はするんでしょう?」

 

「それぐらいはね。逆に言えば、私は多分もう答えそのものを教えることはない」

 

「いいんですか?」

 

「何が?」

 

「……そういう事をして、例えば自分に救えないものができたとして、それで納得できますか?」

 

「何やったって後悔するんだから、別に何をしてもいいんだよ」

 

「……そう、ですかね?」

 

「私はそう思う」

 

「なら、いいです。僕も好きなようにしますよ」

 

「一応、他の人に対してなにかするならそれなりに同意を取るようにはしようね」

 

「……はい」

 

コミュニケーションの欠如による回避できた衝突によって生まれる損とか、純粋に無駄だからね。

 

「あと残すは……農業、医学、統治、教育かな」

 

「どれも時間がかかるやつ、ですね」

 

「一応最低限の下地は作っておいたけど……」

 

「まだ不安定に過ぎます。キイさんや僕がいないと止まったり崩壊したりするでしょうね」

 

「わかったよ」

 

できるだけいつ私がいなくなっても引き継げるようにはしているが、それはそれとして仕事を投げ出すつもりはない。どうせ何やったっていいなら、私が満足できることをしたいものだ。

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