解題
図書庫の奥の一室で、その無精髭の男は箱を見つめていた。
「……解けるのですか?」
「理解してしまえば、謎かけというには直球的すぎるだろうな」
彼は箱の上面にある金属板の文字を指す。
「まず一行目。『水を分ければ小二つと大一つ』……これは酸質と煆灰質のことだ」
「ええ、水が二種類の単一基質の結合であることはこの箱が作られた当時から知られていました」
男にそう返すのは、この箱を管理している担当者。
「その次、『小を分ければ微と著なり』……これは痺子と陰子になる。基質粒子の中心にある陰子はともかく、痺子なら当時も知られていただろう?」
「そうですね、真空管があったので」
「問題はその先だよな……」
無精髭の男は溜息を吐く。彼は広い意味では薬学師だったが、本来は精密測定を専門としている人物だった。ゆえに最先端の知識や測定結果を多く知っている。それが、多くの失敗の積み重ねの上に成り立ったことも。
「『指折って数えよ、微は光に比べてどれほど遅いか?』……これを、あの異哲派の時代に作ったと?」
「それについては間違いありません」
「お前が言うのでなければ、笑い飛ばすか箱を投げつけるかしている」
男の向かいにいる担当者は、彼の学友であった。長らく会っていなかったが、どうやら裏の仕事をしていたらしいという相手の説明を聞いて彼は妙に納得した。
「……で、どういう意味なのでしょうか?」
「指折って数えよ、ということは整数ということだろ?つまりは痺子と光の速さの比の近似値になる」
「痺子の速さなら真空管内で計測できないものなのですか?」
「相当に速い。そしてこれが言っているのはおそらく酸質内での痺子の速度だろうな。それならまた違った調べた方が必要になる」
そう言って、男はそもそもそういった考え方が生まれるようになったのが測定の進んだ最近であることに頭を悩ませる。光の速さが有限だということが知られていたのはいい。痺子の軽さから単純な構造を、つまりは陽の痺子と陰の核からなることは考えられなくはない。
たが、そこまで仮定に仮定を重ねてもなお速度の比を三桁で求めるなんてことはまだできないはずだ。ましてや過去には。
「……待てよ。階段仮説を知っているか?」
「いいえ?」
「最近出た考え方だ。酸質輝線は?」
「そこから説明をお願いできますか?」
男は自分の思考を遅くしなければならないもどかしさに頭を掻きながら、それでも思考を整理するのを兼ねてゆっくりと話し出す。
「硝子筒の中に気体の酸質を入れて痺因を流すと紫に光る。ああそもそも色っていうのは光の波の山と山との長さに対応しているっていうのは?」
「そこまでは。つまり、その一見紫色に見えるものには実際には様々な色が含まれているわけ?」
「そうだ。目に見える範囲なら赤、藍緑、青、紫。そして見えない範囲にも色がある」
「飛び飛び、ということでいい?」
「そうだ。で、これとは別に熱を持った物体が光るのは知っているか?」
相手が無言で二人の頭上にある電球を指さしたのを見て、男は無言で頷く。
「点く途中は赤いが、次第に白くなる。その色と温度の関係の式は永らく知られていたが、その意味はしっかりとは理解されていなかった」
「なるほど。痺因が光に変わる過程と、熱が光に変わる過程があると考えればいい?」
「そうだ。あとは連鎖反応仮説とか感光問題とかあるんだが……ともかく、階段仮説というものだとある種の仕事をする『能力』というのは、階段のように飛び飛びだというのだ」
「……その能力が、例えば一つ分なら赤で、二つ分なら藍緑で、となるのか?」
「間違っているが、方向は近い。ここらへんはまだ議論されているところなんだが……それは様々な問題をまとめて解決しうるが、流石に無茶だろうとして算学上の便宜的なものとして捉えられているというのが現状だ」
そう言いながら、男は頭の中で式を立てていた。おそらく、今知られている定数を組み合わせればそれを出せるはずだ。
「十刻ほど貰えるか?それと、ここ数年分の『総合技術報告』を」
「こちらへ」
箱の担当者が男を別室に案内するために立ち上がる。
「……ところで、あの箱の中身は何だ?」
「仮説で良ければ」
「構わん」
「……実は過去に一度、あの箱は開けられたことがあって」
「謎を解かなくともか?」
「三桁の数を組み合わせれば開くから、千回試せばいい。事前に透過線撮影をして変な仕掛けがないことは確認済みだった」
「……なるほど。それで?」
「最初に箱に入っていた紙には、『正しく解くまで中を見ないこと』とあった」
「箱を作ったやつは性格が悪いに違いない。……いや、その答えとなる数字を知っているのか?」
「教えるつもりはないよ」
「いや、もしその値が実際の実験結果と一致していたらだ、それをどうやって知ったのかの問題が残る」
「それについては、箱の中に答えがあるかもしれない。おそらく、この謎が解ける時代のために『女史』が遺した伝言だから」
そう言って担当者は「中央調査室」と書かれた扉を開け、彼を中に案内する。部屋の隅には机が一つ。近くの棚には参考になりそうな資料が一通り。
「女史って誰だよ」
「まずそこから話をした方がいい?」
彼からの言葉に、担当者は苦笑した。