その男は、ここしばらくの閑職を気に入っていた。
若い頃、彼は各地で水車を設置する仕事をしていた。水車と言っても昔ながらの木でできたものではない。抗錆鋼で作られた羽根車とでも呼ぶべきものだ。後に新帝国と呼ばれる各地で作られた部品を組み合わせて、また別の人が作った治水用の堰堤に置くだけだった。
ただ、それに問題が見つかったのは各地で堰堤が作られてから十年ほど経ってからだった。自然学の専門家が蓄積された統計をもとに割り出した魚の遡上が途絶えたことによる問題は想定以上に大きく、新規の計画が見直されることとなった。その後の修復にまた十年。彼が手掛けた大規模な水車の多くは規模が縮小され、より生態系への影響の小さいものへと置き換えられた。
そのようにして、彼の半生が過ぎ去ったのである。
今の彼の職は宣言機構統合法務審議会技術顧問官というもの。たまに法を作るに当たり助言をする程度で、それ以外の空いた時間で自分の関わった発動機についての記録をまとめているような状態であった。
数日前、そんな彼に一つの封筒を差し出してきたのは昔一緒に仕事をしたことがある「総合技術報告」の編集長だった。
「で、どうだ?」
無精髭の編集長が声をかけると、顧問官の引きつった口元が上がり、目が細くなってまっすぐに封筒を押し付けてきた相手を見据えた。
「これをなぜ見せた?」
「経歴と知識において、あんた以上の適材はいない。ただ、俺は政策決定にはあまり知識がなくてな。現場を知り、かつ上の方との繋がりもあり、失敗を知っているあんたにしかこいつは頼めないんだ」
「……書かれている内容については知っているのか?」
「中に書いてなかったか?その利用は読んだ本人に任せられる。伝えてもいいし、伝えなくてもいい」
「……水車が作るより膨大な痺因を、熱によって生み出す方法だ。具体的には、それを行う機構についてどう反発を抑え込んで導入するかの方法だ」
大気中の煆灰化炭質の増加とそれに伴う気温上昇を指摘し、解決策としてこの分裂機関というものを導入しようとする動きは石炭や石炭油をそこまで大量に使っていないので使えない。そもそもこれを書いた人物はそういったものを大規模に燃やして動力としていることを想定していたようだが、そういうものは基本的に痺因でどうにかなるので使われていない。
周囲の人間への影響も、正直なところあまり良い気がしない。燃えた時に出る煤の話はやはり該当しないし、放出物に含まれるある種の毒の処理は容易ではない。列挙されていた問題を見るに、相当扱いが難しい機構なのだろう。
だが、それを加味しても大規模で安定した痺因を得られるということは魅力的だった。それも冷却のためには最悪水がなくてもいいという。
「そんな反発されるようなものなのか?」
「危険性がある、ということだ。それなのにわざわざ伝えるということはそれ以上の利益をもたらすのだろうが……」
「理論と技術の担当者が言うにはあんたが死ぬ前までにはできるだろうとのことだ」
「これ以上生きて恥を重ねろと?」
「それが学んでしまった責務ってやつだよ。で、どうだ?」
「……見る限り、そう大きな問題はないように思う。むしろ組織に必要な人材を揃えることのほうが重要だな」
「というと?」
「外部から干渉されない組織でなければならない。急かされて起動手続きを誤れば、籠もった熱で機関全てが溶け落ちる」
「……そこまで恐ろしい代物なのか?」
畏れと不安の混じった表情で、編集長は顧問官を見る。
「ああ、更に組織上の問題まであった。事後の対処を誤らなければそう大きな被害は出ないと言っているが、見渡せる地域一帯から人を退避させねばならないのを大きな被害ではないと言うこの文章の作者の認識は少し歪んでいる気がするな」
「仕方ないだろ、これが書かれたのは何年前だと思っているんだ」
「読んで思ったのだが、これが書かれたのは何年後なんだ?いや、そもそも想定がおかしい」
「それについては、大図書庫の中央調査室がありがたい報告をまとめて下さった。一連で説明できるぞ」
「ほう」
「出身不明、来歴不明、正体不明。異哲派の時代の下地を築いたとされているが、詳細は俺も全くわからん。ただ、完璧な人間でもなければ、未来を見通せたわけでもないことは間違いない」
「……なら、問題ない。ただの先人だ。超えるべき一人に過ぎない」
「そうか。必要であれば地位と資源は融通を利かせられる。色々と裏事が得意な人物が手を貸してくれると中央調査室の旧友が言っていた」
「ただ、秘密を守りながら、だろう?」
「そうだな。新しい現象が発見されたため、それを活用するための組織を作る。その長としてあまり注目されていないあんたを据える……どうだ?」
「どうだと言われても、そう簡単に組織を作れるのか?」
「まあ『総合技術報告』ならできるだろうな」
「……確かに」
あらゆる分野を扱う専門家を繋いでいて、地の上の知識が集まる本。そこから必要な人は集められるだろう。必要ならかつて繋がりのあった商会に協力を求めてもいい。そう考えて顧問官は、今まで満足していた閑職が、急に寂しく思えてきた自分に気がついた。