書体
「つまり、その凹凸を持った小さな金属の塊で紙に
馴染んできた部屋で、私はケトに説明をする。根本的に語彙が足りないので、かなりの時間が概念の共有に取られてしまっているが仕方がない。
「ありますよ、そういうもの」
「え」
私が印刷の基礎を説明すると、ケトは何気なくそう言った。
「十や二十を超える本を写す時に、全部一つ一つやってはいません。木を文字の形に削って、それをさっき言われたように使います」
「でも、本は高価だよね」
「手で写さなくとも、かなりの手間がかかるのは変わりませんからね」
「そこでだよ、毎回毎回新しく作るのではなく、すでにあるものを組み合わせてやれば」
「発行された年を示すのにそういうことがされたり、あとは誤字を直すのにも」
「うーん」
説明がうまくいかない。それとも具体的なメリットを提示できていないのだろうか。
「ただ、金属で作るのは面白いですね。作れるなら、ですが」
「作れるはずだよ」
電胎母型法とまでは言わない。ヨハネス・グーテンベルクの時代の方法で構わない。
「……それを作るとしたら、収量報告に間に合いますか?」
「どういうこと?」
「作られた報告は写されて各地の衙堂に納められます。なら、ここをその方法で作ればいいのではないですか?」
「……ねえ、ケトくん」
「なんですか?」
「どうして私はさ、作品の出版についてだけ考えていたんだろうね?」
「キイさんがいたところでは、そういう本が多かったのでしょう。仕方がないことです」
「そうか、先に衙堂を巻き込んでしまえば……」
「でしたら、キイさんに会って欲しい人がいます」
「私に?」
「ええ」
ケトはそう言って、いたずらっぽく微笑んだ。
「どうして言わなかったの?」
「説明するのが大変だからです。……それと、キイさんが文字の形が欲しいと言ったので、それを用意できるならしたいと思って」
「わかった。ありがとう」
そんな話をしながら、私はケトの後ろを歩いて衙堂の奥の方に進む。最近は別行動も少なくなかったので、こういうふうにケトに何かを案内されるのは新鮮だ。
「入ります」
「どうぞ」
落ち着いた、威厳のある声が聞こえた。
インクの匂いがする部屋の中に巻物に囲まれて座っていたのは、白髪の女性だった。髪を茶色に染められた紐で一つに結び、長らくペンを握ってきたことでできたのだろう指をしている。
「ああ、ケト君か。そちらの方は?」
「以前話していた僕の師、キイ嬢です」
「師なんだ」
思わず言ってしまう。振り返るケトの少し怯えるような表情。
「それで、また話を聞きに来たのかい?」
「いえ、キイ嬢に文字を見てもらおうかと」
「……文字?」
「まあ、見てください」
ケトに促されて確認すると、確かに見やすい字であった。達筆というよりも、一つ一つがしっかりとしている。
「この方はこの衙堂の書字長です。衙堂の重要な書類の多くは彼女が書いたものが正本となります」
「文字を書く以外特にできることもない、ただの老嫗だよ」
「……書字長殿、もしこの字で全ての書類を作ることができれば、どう思いますか?」
「どう、と言われてもね。もし書字生が私みたいに書けたらとは思うけど」
「木版を改良し、文字一つ一つを組み合わせるようにします」
「手間がかかりすぎるだろう」
「版を金属で作ります」
「硬いものを、どう削る?」
「削りません。鋳るのです」
「ふうむ」
書字長は息を吐いた。
「つまりはケト君、こういうことか。この司女の企みに、私を乗せようというのだね?」
「決してそういうことでは」
慌てるケト。落ち着け。これはこういうからかいが好きな老人のムーヴだ。
「だとしたら、文字を相当気合入れて作らないといけないねぇ」
ニヤリと書字長は笑う。何本か歯が抜けていた。
「段階が必要だね」
私のざっくりとした説明を聞き、書字長は言った。
「まずは金属の文字版を作ること。そして、それが木版よりも実用的であることを示すこと」
手元で書かれるのは数十個の同じ字。
「ええ。いくつか超えるべき困難はありますが」
「例えば?」
「
「どう解決する?」
私は答えを知っている。本来は短くない試行錯誤の結果得られたものだ。
「油を使います」
何種類かの油を混ぜ、できるだけ最適な性質を示すものを作る。ここらへんの実験計画テクニックは一般教養だ。
「なるほど、金物の油はなかなか取れぬからな」
素早く書字長は具体例を出してくる。頭の回転が速い。文字を書く以外できることがないというのは嘘とまでは言わないが、意味が広いのだろう。
「それでもまずは、具体的なものを見てみたい」
「と、言いますと?」
書いた文字のうち、一つを書字長は選んだ。私には違いがわからないが、ケトにはわかるらしい。
「この字の文字版を作る事ができたら、私の力を貸そう」
私の小指の先程の大きさの文字。30文字の中で一番複雑な形状をしているものだった。