ここは図書庫の城邦と呼ばれているが、その図書庫には誰でも入れるというわけではない。いや、この言い方は不正確だな。
城邦内には様々な記録保管・情報集積施設が存在する。衙堂の中にある図書庫は各種の統計や記録がまとまったもの。北の方の商館には博物館にも似た収蔵施設があり、学舎の多い地域には教科書を有償で貸したり資料を見せたりする施設がある。ただ、最大にして最も専門性の高い「図書庫」とだけ呼ばれる施設は入ることすら難しい。利用できるのはそこで雇われている講官と、特別の紹介状を持った人物のみ。かつての世界では一般的だった地方自治体によって運営される公共図書館に慣れている身ではなんとも面倒だなぁと思うが、私の知る歴史上の図書館もだいたいそんな感じだったので仕方がない。とっととここらへんをどうにかしたいがたぶん既得権益とどこかで思い切りぶつかる。ちくしょう金がほしい。金さえあればここではかなり色々できそうなのだが。
「……聞いていますか?」
「あ、うん。聞いていなかった。ごめん」
「まあ、確かに疲れますものね」
私とケトは衙堂の書庫で「雑物総記」というタイトルの大作を端から読むことにしている。これはプリニウスの博物誌やディドロの
「しかし、キイさんは読むの速いですね」
「君が言うな」
書く文字も見る文字も聖典語で、一時期は口から出る言葉が東方通商語と聖典語でぐちゃぐちゃになり、夢で聖典語にうなされたぐらいだ。なお「雑物総記」曰くこれは精神疾病の一種として分類するべきものらしく、勉学と鍛錬に励むことによってのみ治るらしい。どうでもいい。
「だって、キイさんにとって聖典語の文字を読むのは僕が古帝国語の文字を読むようなものでしょう?」
「読めるの?」
「少しずつですが……」
古帝国語の文字は漢字に近い。ただ、一つの文字が意味と品詞とを意味する記号を内包しており、読み方と書き方の分離が強いのだとか。聖典語すら怪しいレベルの私にそういう話をされても困る。
「勉強熱心だね」
「キイさんについていかなくてはいけないので」
「私、そんな頑張っているっけ?」
ケトは溜息を吐いた。もう少し私は自分の能力に自覚的になるべきかもしれない。
決して難しくはない言葉で、その分野の専門家の知見をベースに、初学者レベルに向けての説明がされているというのは本当にありがたい。「雑物総記」は数十年前に当時の図書庫長が主導した大事業であり、ほぼ全ての講官が記事を書かされたという。
おかげでこの世界の知識水準については、なんとなくであるが理解した。数式は存在しない。負の数はあまり議論されていない。虚数は出てきていない。非ユークリッド幾何学はない。地動説モデルはあるものの、誤差をどうするかで議論は続いている。自然についての観察はあるものの、実験という概念はない。遺伝の法則も見つかっていはいない。薬学については神学的な説明をする派閥とより機械論的な説明をする派閥とで揉めている。医学では稀に解剖がされ、二重盲検などというものは当然ない。なるほど、私の知識はかなり活かせそうだ。一回だけなら。二回目以降があるかどうかは私の首が身体と離れ離れになったり、路地裏で刺されたり、あるいはどこぞの地下に幽閉されたりするかによる。
「ただまあ、たぶんできるな」
「何をですか?」
「図書庫の講官たちと、話をすること」
「……何を示すのですか?」
「色々あるよ。雷を作る術とか、都合のいい計算の世界とか、世界が何からできているかを探る方法とか」
「まずは僕に説明をしてくださいね?」
「基本はそうするよ。私だってひどい目には会いたくない」
そう言って私は「雑物総記」に視線を戻す。ひと月以上かけてまだ三分の一程度しか読み進んでいないが、いくつかの計画に必要な資源や技術については押さえられた。プランの変更も多かったけれども。
特徴的な性質のある鉱物は、読んだだけでも見分けがついた。柔らかく、火に強い
「で、どうして今日はいつもと読む順番を変えて金属細工の話を……って聞く必要はないですね」
「まあ、何度も言ってるからね」
私は懐に入れてある袋から木製のブロックを取り出す。断面が正方形の、指ぐらいの太さのその底面には私が丁寧に彫った文字の出っ張りがあった。