私が扉を叩くと、どたばたという音の後に赤みのかかった髪をベリーショートと言っていいほどに刈った中性的な人物が扉から顔を出した。事前に女性だと知らなければ男性だと思っていたかもしれない。この世界の女性の髪が長い傾向にあることを考えると、かなりの違和感がある。
「キイ嬢?それで後ろはケト君?」
「ええ、トゥーヴェ師*1でお間違い無いですか?」
「トゥー嬢でいいよ*2」
私が返事をすると、女性は大きく扉を開けた。
「ようこそ。薬学を学びに来る人は久しぶりだな」
「そうなのですか?」
意外そうに言うケト。
「ああ、こんな変物の教えを受けたところで人を治す術も、役立つ何かを作れるわけでもない。それより、あんなに褒められたのは初めてだよ」
私が書いた手紙のことだろう。関連文献を引っ掻き回した結果、この図書庫の城邦で一番私の知る化学に近いことをやっている人物だったのでそこに触れたのだが、うまく行ったようだ。ケトにも確認してもらって失礼のないようにしたのでたぶん大丈夫。
「あれだけの作業を行うのは、それだけで偉業に値しますよ」
彼女の専門は定性分析だ。様々な種類の物質と、酸と、塩基を反応させて沈殿や呈色を見るもの。先日アンチモンを含む可能性のある鉛鉱石の話から気になって薬学関連の本を調べていたら彼女の名前が出てきたので、急いで連絡を取ったのである。直接出向こうとしたらケトに止められてかなりしっかり怒られた。はい。反省しています。先日工房に活字の鋳造を頼んだときも黙って行ったのでそれについても少し言われた。心配性すぎないかと一瞬思ってしまったが、まあ用心するに越したことはない。
「私から言わせれば、市井の薬学師たちがなぜあんなにも行き当たりばったりで動いているのかが謎だがね」
そういう会話をしながら、トゥー嬢は私とケトを二階の応接間のようなところに案内した。かなりの巻物が置かれていて、なんというか大学の教授のデスクを思い出す。
「……片付けるべきだったか」
「いえ、お構いなく」
ケトの方を見ると話に入れなくて少し不満そうだ。すまない。ただこれは専門的に過ぎるのだ。
「ここには来て短いと聞いたが、薬学をどこかで学んだのか?」
彼女が話を切り出す。
「ええ。あまり詳しくは話せませんが」
基本的な知識は高校化学レベルだ。ただ化学史をやる過程で色々小ネタは学んだしガラス器具の制作の修行も研究で必要だったのでやった。なのでまあ、基礎ぐらいはできているはずだ。
「まあ、そうか。……研究設備を見るか?どうせ隠すほどのことはやっていない」
だから凄いんだよ、と私は心のなかで呟く。やっている内容はケトでも理解できるほどだ。しかしその膨大な組み合わせの反応をきちんと纏めて本にするというのは、容易ではない。歴史でもしばしばそういう人物が現れる。情熱をデータ測定に注ぎ、その次の世代の新理論の礎を築くような人たちが。私の専門分野の一つだ。科学技術史は決して巨人の歴史ではない。数多の名もなき屍のほうが巨人よりも影響が大きいのだ。ちなみにこれはあくまで私の信条であり、これと矛盾した研究もきちんと発表している。なんというか尊厳が危ないが、これを否定して自分の思想に合うようなデータしか集めないのはもっと研究者としての矜持に関わる。
「いいのですか?」
「視線がここに来るまでにかなり彷徨っていたぞ」
そうやってトゥー嬢は笑う。かっこいいな。
「……そこの少年よりも、あなたのほうが子供らしい目をしているな」
「好奇心は大切ですよ」
そう言って、私は棚に並んでいた瓶のラベルを思い出す。混酸を作ることのできる条件は整っている、か。
「少し試してもらいたいことがあるのですが」
私の言葉に、薬学師は少し興味深そうな顔をした。
ガラス器具の量はあまり多くない。作るのが難しいのだろう。小型の炉と、ふいごと、蒸留装置。
「結局、何ができるんだ?」
立って作業ができるような高さの木の板の上に道具が並べられる。
「子供の遊びに使うようなものですよ。燃えやすい布です」
「そんな危ないものを使ってか」
そう言いながらも彼女はてきぱきと準備をしてくれる。今回加工されるのは小さな薄い麻布。
「分量は?」
「蒸留した濃い硫酸が3に、蒸留した濃い硝酸が1」
ここらへんの薬品名は少し専門文書を見ればわかる。
「正確である必要は?」
「たぶんありません」
シャーレのような薄いガラス皿に、器用に液体が混ぜ込まれた。丁寧な作業だが、現代のドラフトチャンバーを知っている身からすると恐ろしい。
「さて、普通であれば硫酸によって炭となるところだが」
うん。硫酸の脱水作用は有名だ。だが、今回はあくまで硫酸は脇役。
「……何か変わったか?何かが起こってはいるようだが」
「作用に時間がかかるはずです。しばらく置き、その後水で洗い、乾燥させてから火をつければよく燃えるはずです」
「まあ、後で試してみよう」
容器に同じくガラスでできた蓋をし、トゥー嬢は私たちの方を向いた。
「ともかく、私の知識を教えればいいのだな。基本的な道具の使い方と、薬品の扱い方と、あとは……、まあ追々やればいいか。」
「授業料は幾らほどになりますか?」
今まで静かだったケトが言う。
「正直金に困ってはいないからな……」
わぁ。まあ科学というものはなんだかんだ言ってある程度の期間は趣味人によって発展したところがあるからな。
「なら見習いが終わった後もしばらく作業の手伝いをしてくれ。それが教える条件だ」
「私はそれで構いません。ケト君は?」
「キイ嬢が良いのなら、僕も」
「よっし。では君たちの師となった私から、最初の言いつけを」
彼女は首の後ろを掻きながら、気まずそうに口を開く。
「片付けを手伝ってくれないかな」