布にゆっくりと、先に火の付いた細い棒が近づけられていく。次の瞬間、手のひらぐらいの大きさの火が上がった。
「おお!」
薬学師のトゥー嬢が声を上げる。思ったよりうまく行ったな。ほとんど燃え残しもなく、火は紙を舐めるように広がって消えた。
「なかなか面白いものだ」
そう言う彼女に私は黙って微笑む。作られたのはニトロセルロース。地球での化学史には、この物質の発見についてのちょっとした逸話がある。クリスチアン・フリードリヒ・シェーンバインが実験の最中にこぼした酸を妻のエプロンで拭き、こっそり乾かしていたらいきなり燃えたのである。そう、きっと今目の前で起きたものと同じように。
「こんな危ないものを作らせたんですか?」
後ろから聞こえるケトの低い声。
「作業に慣れている彼女ならできると思ったんだよ」
「……で、これは何に使えるのかね?」
私たちの会話を半ば無視して、トゥー嬢は質問をした。
「……火口とか、ですかね」
ここまでうまくいくとは思っていなかった。蒸留がしっかり行われていて、反応がきちんと起こったのだろう。で、このニトロセルロースの応用例は色々ある。有機溶媒に溶かしてフィルムにしてもいい。適切な可塑剤と合わせて最初期のプラスチック、セルロイドを作ってもいい。……あとは、ニトロトルエンなどと組み合わせれば無煙火薬になる。
「なるほど、ただこれほど燃えるなら保存も容易ではないな……」
先を読んでいるな。まあ実際これを使って作った再生繊維の服がよく燃えて大変なことになったので応用は難しい。それでもこれが作られた当時は代替素材がないか、あるいはこのニトロセルロース自体が代替素材として使われたので定期的に色々なものが燃えたと聞く。
「少しこれについて調べてみることにしよう」
「いいですね」
「ところで君たちは、何がしたいんだ?キイ嬢は知識はあるようだし、しばらくは監督下でとの条件はつくが機材は使っていいぞ」
薬学師の申し出は有り難いものだ。まあ私の目的はかなりしょぼいが。
「私は墨を作りたいのです」
「どのような?」
「油を主体とします。金属とよく馴染むようなものが欲しくて」
「染料は薬学の真髄だ。ここよりもっといい場所もあるのでは?」
「問題は油の配合ですよ。ここで手に入るものではどう組み合わせれば一番いいか、はっきりしないので。あなたはそういう作業に長けている」
「なるほど。まあ好きにするといい」
面白い性格の女性なのだが、まあ尖っている分人間関係は難しそうだ。
頼んだ活字は一つのはずだったのだが、失敗品ということで十本ほど試作品をもらえた。ありがたい。
「さて、と」
各種の油や蝋、樹脂をなんか気分で合わせて煤と混ぜる。配合のメモは取ってあるが、基礎となる組み合わせの決定は基本的に行き当たりばったりだ。作ったインクを活字につけて紙に押し、にじみやかすれ、乾燥までの時間を確認したら蒸留アルコールを染み込ませたボロ布でインクを拭き取る。
「ぐわわ……」
後ろではケトがひっくり返っていた。薬学の専門的用語や知識を詰め込まれたのだから仕方がない。
「ねえ、ケトくんは詩人になりたいって言ってたよね」
「……ええ」
「詩人に薬学の知識って要るの?」
「あって困るものではないでしょう。というより哲人たるにはやはり四領域の教養が……」
前ケトと読んだ内容を思い出す。この世界の学問体系はざっくり四分野に分けられ、万神学、天文学、医学、統治学がそれぞれの頂点となっている。ケトが目指す詩は万神学ルートだ。この世界の文学というか韻文芸術は基本的に神々について語るために発展したらしい。ここらへんはまだ聖典語に慣れていないので誤読があるかもしれない。
「キイさんはやはり、昔から学んでいたから簡単ですか?」
「まさか」
全く違う概念と用語を語源にも触れながらやっているのだ。そしてしばしば知っている概念に似ているようで違うものが出てくる。たとえば「基質」とでも訳すべき概念は酸や塩基などを広範に含んだもので、物質を分類する際に何種類の「基質」を仮定するかの議論があったりする。ただまあ電気分解がないので根本的に元のデータが足りていない印象は受ける。今度工房にいい感じのサイズの銅と亜鉛の板を発注してもいいかもしれない。
「……お、悪くない感じ」
最初からアプローチの方向を知っていたので、百回程度の挑戦で有望そうな組み合わせを見つけることができた。あとは他の原料を少しずつ混ぜたらどうなるか、単純な組成にできないか、インクの保存が効くかどうかなどを確認していけばいい。
「金属文字版はお金の問題があって、インクは作れて、あとは何が必要ですか?」
「圧力を加える機構。これは搾油機を改良すれば使える。紙はいまのものでもいいかな」
今更になって気がついたが、この紙はインクがにじみにくいのだ。一種の樹脂を使っているらしいが、詳細は不明だ。油性インクにも対応していて助かった。製紙からやるとなるとさすがにきつい。
「それだけ?」
「最初はね。ただ、もっと多くの本を印刷するとなると重要な問題がある」
「何ですか?」
「文字の大きさを決める必要があるよね」
「ええ」
「正確に並べるためには、文字の大きさがある決まった長さよりも大きくて、あるまた別の決まった長さよりも短い必要がある」
「……ちょっと待ってくださいね。ある範囲の中に、文字の大きさが入っていればいいということですか?」
「うん」
規格化という考え方だ。フランスにおいて砲に関連する規格化が行われたのがアメリカ独立戦争の頃だから18世紀末。19世紀には銃などに使う互換性部品の寸法確認で限界ゲージが使用されるようになり、20世紀には大規模な標準化に基づいた大量生産が始まった。私の知る歴史では、規格化は火薬とともにあった。火薬の燃焼で発生したガスを効率的に弾に伝えるためには隙間は少ない方がいいため、砲身や銃身とのサイズの一致が重要になる。ここで培われた技術は蒸気機関へ、そしてエンジン開発に繋がっていった。
ただ、私はそれとは別のルートを取る。
「……どの尺で作るかが問題になりますね」
「そう。そしてきっと、多くの人が私たちを真似て印刷をする」
「場合によっては、図書庫の城邦の尺が一帯の標準となるかもしれない、と」
「そう。だから最初の方は大切なんだよ」
私はそう言いながら、活字を綺麗に拭いた。