「キイ嬢、明日の夜に予定はあるかね?」
「私ですか?」
計算を蝋板に書き付けていると、上司である煩務官が私に声をかけてきた。先日完成した収穫報告を部署として提出したので、今の私とケトは実は宙ぶらりんの立場にいる。過去の収穫量の統計分析をやろうとしたら同僚からマニュアルを作る方に注力してくれと言われたので簡単な手引を作っているが、これは別にメインの業務ではない。
「ああ。もし用事があるなら仕方がないが、古くからの友人が晩餐を開くそうで、それに君を誘おうと思っている」
「なぜ私を?」
「今回の報告について、色々と話を聞きたいそうだ」
おーっと、これはあれだな?晩餐といっても赤坂の料亭に近いあれだな?
「なるほど、ならば断る理由もありません。しかし私はそのような場に慣れていないため、ケト君を同伴者とすることはできますか?」
まあ学会後の懇親会とは違うだろう。かつていた業界が一部の政治家に少し色々されたのでそっちの方面の政権やら党やらへの印象は良くないのだが、別に政治という行為に対して特別な感情を持っているわけではない。巻き込まれたくはないが。ただ、今後何かをやるのであればそういう場にも出なければならないだろう。となると、この晩餐は面を通すという側面もあるのだろうか?
「……構わない」
「わかりました」
「それと、書字長から話を聞いた。面白そうなことをしているな」
「前に紹介していただいた職人はとても良い腕をしていました」
改めて衙堂の家具や調度品を見るときちんとした作りだった。この世界の工作水準は、少なくとも手作業においてはなかなかいい。
「それについての話も明日できれば、と思っている」
「わかりました」
「それでは、失礼」
「どこへ?」
「発表の準備だ。さすがに練習もなしに頭領の前で舌は回らん」
そう言って、上司は足早に去っていった。
「暗殺ですね」
夕食後、部屋に帰るとケトは小さな声で私にそう言った。
「古来より、晩餐は裏切り者の暗躍する場でありました」
「その言い方だと私たちが殺すみたいじゃない?」
「確かにそうか……」
そもそも最初から冗談なのであまり深く捉えてはいけない。時々ケトはこういう危ないジョークを言うのだ。
「それと、かなり冷たいです」
寝台にいるケトが入っている布団のようなふかふかした防寒具に足を突っ込んでいるので、まあ、そうだろう。
「いや冷えるんだよ今日は」
ちなみにこの大きな寝袋に近い防寒具は給与で買ったものだ。正直安くはないが、凍えて眠るよりはいい。
「これからもう少し寒くなりますよ」
「嫌だなぁ……」
隙間風がないとはいえ、部屋全体の空気は冷たい。暖房代わりにそろそろ火を起こしたい時期だ。ああ、給与が飛んでいく。
「冬とはそういうものです」
「冷たくて白い雨って降るの?」
「雪ですか?ここらへんではあまり降りませんね。北の方では積もると聞きましたが」
まったく、こういうところの語彙も足りない。私は溜息を吐いてケトに近づき、防寒具の中に入る。
「……キイさんの身体は、あったかいんですけどね」
「そう?末端が冷たいのかな」
「そうですよ」
私がそう言うと、ケトの手が私の指に触れた。
「ほら、やっぱり」
少し勝ち誇るようにケトは言う。
「ところで、明日は何をすればいいのかな」
「飾れるほどの服はないでしょう?いつものようにすればいいのではないでしょうか」
そういえばこの世界の装身具について意識したことはあまりなかったな。長い髪を結ぶ時の紐とか、防寒用に肩に巻くスカーフのような布とか、帯とかはよく見る。ただそれ以外はあまり見ないな。市場に行けばそういうものが色々あるのかもしれないが、できるだけつけたくない。面倒なので。まあ、ドレスコードはなんだったら新参者ということで誤魔化そう。
「まあ、そうか」
「あとはまあ、敬意を払えばいいと思いますよ」
「そういうものには詳しいの?」
「礼儀作法はハルツさんに叩き込まれたので……」
そうか、そう考えるとケトはかなりしっかりと教育を受けているのだった。これってもしかして本来なら慎ましく暮らせたはずなのに怪しいお姉さんに人生を狂わされているのではないだろうか?どう考えても私が犯人である。
「おお友よ、変わりないか?」
奥から出てきたのは、大きな声で言う、声と同じように大柄で筋肉質な男性。煩務官が吹っ飛ばないか心配になるぐらいに肩をバンバンと叩かれている。
「お前も相変わらずだな。紹介しよう。こちらの方が将軍補だ」
煩務官がいつもの変わらない冷たい調子で言うが、たぶん結構仲いいなこの二人。というか、将軍補ともなれば軍事階級でかなり上位だ。なんでそんな大物の晩餐に出ることになったんだよ。
「衙堂で見習いとしてではありますが仕事をしております、ケトと申します。こちらはキイ嬢。僕の師です」
うん。そういうことでいいや。私も頭を垂れる。ここらへんはさっき確認しておいたので問題はない、はず。
「素晴らしい!城邦を支える賢人を招くことができるとは光栄だ」
そう言って彼は私たちを館に招いてくれる。私たちの宿舎とは違う、広々とした空間だ。絨毯が引かれ、明かりが焚かれ、地位と富を感じさせる。ただ成金的というよりは全体的に調和したなんとなくの上品さがある。
客間らしき空間には、すでに何人もの人がいた。編まれた籠のようなものは肘置きだろうか。床に座ったり、半ば寝そべったような状態になって歓談が行われている。古代ローマの饗宴を思い起こさせる光景だな。
二股に分かれた金属製のフォークのような食器で、球状のキッシュにも似た料理を食べる。たぶんたこ焼き器みたいなもので卵をベースとした生地を焼いているのだろう。弾力があるのは脂身だろうか。おいしい。
いや、思考から逃げるな。今ここにいる人間は、ケトが名前を知っているような大物が多い。というより煩務官も立場的には政治に強く関わる官僚のようだし。
「あの人の本は読んだことがあります。『商者警句集』を下敷きにして論じていたのですが、面白い切り口でした」
私に耳打ちするケト。ふうん。やべえやつばっかかよ。経済学者とでも言えばいいかな。
「それで、例の計画とやらはいつ話してくれるんだ?」
館の主である将軍補が煩務官に声をかける。
「正客が来てからだ」
そう呟くと同時に、部屋が少しざわついた。
「お待ちしておりました」
将軍補がそうやって礼を示すのは、彼よりも一回り若い男性。年齢に見合わない威厳があり、金の腕輪が派手にならない程度にはめられている。
「……あの腕輪は」
ケトが私に近づいて呟く。
「別に構うなと言っているだろう。宴の場でまで城邦を背負いたくはない」
「この城邦を率いる人である証です」
ああ、なるほど。これは相当のVIPだ。おい煩務官、こういうのはきちんと先に話をしてくれ。
「それで、あなたがたが新顔かな」
彼の強い眼光が私とケトの方を向いた。私はただ、頷くことしかできなかった。