図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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試行錯誤

衙堂の使っていない空間に色々なものを運び込む。中古で手に入れた螺子(ねじ)式の圧搾機。あまり質の良くない紙。実験を繰り返したインク。大量の活字。金属製の枠。古い布で動物の毛をくるんで作った短穂(たんぽ)。よし、準備は整った。

 

「かなり余裕を持ってできましたね」

 

「まさか」

 

私はここからの苦労を知っている。多くの本ではただ「試行錯誤を繰り返した」と表現されるような、細かなノウハウを積み上げる工程があるのだ。

 

「ま、とりあえずやってみますか」

 

枠に活字を並べ、印刷できる状態にする。内容は聖典語によるこの活版印刷についての簡潔な説明だ。文面はケトが一週間ぐらいかけて作ってくれた。これがミームの自己複製機構である。短穂(たんぽ)でインクを版に乗せ、紙をセット。

 

「いくよ。引いて!」

 

私がそう言うと、ケトが圧搾機のハンドルを回す。この回転運動はネジによって直線運動へと変えられ、紙を版に押し付ける。

 

「放して」

 

ケトの掛け声は間が抜けているように聞こえる。まあ、これは純粋に文化圏の違いだ。

 

「……どうですか?」

 

不安そうに見る隣のケト。私はゆっくりと紙を引き抜く。

 

「一部にしか(インク)がついていない。……間に紙を入れるか」

 

たぶん圧搾機が押す面と版の表面の平面がうまく合わなかったのだろう。これを解決するためにはある程度のクッションを入れればいい。たぶん。

 


 

10枚ぐらいの紙を同時に入れて実験。裏の紙に滲んでしまう。インクの油の量を調整。

 


 

一部にまだかすれが出る。紙が硬いのだろうか?少し湿らせてみよう。濡らした紙を何枚かの紙で挟んでおけば、水がゆっくりと浸透していく。この工程自体に圧搾機を使っているのでしばらく休憩だ。

 


 

多少はうまく行ったが、インクが柔らかすぎるのか文字が潰れている。配合のバランスを調整。

 


 

かなりうまく行ったように見えるが、どうだろうか。

 

「駄目です」

 

「はい」

 

「文字版ごとにたぶん高さが違うので、文字の濃さが変わっているのではないでしょうか?」

 

「確かに」

 

「それと、(インク)を塗る時に使っているこれの布目が出ています」

 

「それなぁ……。革を使えばもう少しうまくいくかもしれないけど、代案がある」

 

「何ですか?」

 

「膠で専用の道具を作る」

 

「……ああ、動物の骨を煮て作る接着剤の、あの膠ですか?」

 

「そう。それでこういう円柱状のものを作って……」

 

ローラーだ。昔謄写版について読んだときにゴム製だけではなく膠製のローラーもあり、一部に人気があったと読んだのを思い出した。

 

「薬学の領分ですね」

 

「なら、あの人のとこへ行くか」

 

私は背筋を伸ばす。作業に熱中すると、時間が経つのは速いのだ。

 


 

「……よし!」

 

うまく溶かして流し込んだゼラチンが固まってくれる。これを作るだけでも結構大変だった。純度を上げるために酸や塩基で処理する手法が確立されていて本当に良かった。

 

「できたようで何よりだ」

 

ぶっきらぼうな言い方だが、この薬学師がなんだかんだで支えてくれなかったら折れていたかもしれないと考えると感謝してもしきれない。

 

「それで、文字版の高さの方は?」

 

「あれの原因は文字版の高さではないという結論になったよ。高さはどれも決まった範囲にあった」

 

そう聞いてくるケトに私は笑って答える。

 

「ではなぜ?」

 

「見逃していたのは、文字版を入れていた枠自体の問題だ。下に紙を入れて高さを調節し、うまくできないかやってみるよ」

 


 

圧搾機自体を斜めにする。これで紙の出し入れが容易になった。ただインクをつけるコツが変化する。できるだけ簡単に、できるだけ繰り返しても変化しないように。

 


 

「それは何を?」

 

印刷に失敗した紙の余白を使って計算を続ける私に、ケトが心配そうに声をかけた。かれこれ一ヶ月作業をしているが、まだ満足する出来のものは完成していない。

 

「変える条件を一覧にして、どれとどれが相互作用するかを考えて、組み合わせを試す」

 

「膨大なものになりますよ?」

 

「それを減らす、計算的な技があるんだよ」

 

実験計画法は最初農業分野で発展した。複数の因子に影響を受ける現象の分析に力を発揮するこの手法は、ちょっとした数学的アイデアで生み出せる。さらなる発展には統計学の基礎知識が必要で、そのためには微積分ができなくてはならない。やばいな。ちょっと怪しいぞ?

 

「それで、減らして何回程度ですか?」

 

「1512かな。たぶん」

 

直交表を作るのが怪しかったので重複上等でプランを組んだ。私の完璧な計算によれば半月で終わる。春分まではあと一月なので、余裕だな。

 


 

「計算結果、ここに置いておきますね」

 

「……ありがと」

 

私は目を覚まして、床から立ち上がる。厚手の生地で作った作業服でもたまに飛ぶインクは完全には防げない。私の分の計算は終わっている。あとはバイトで雇っている学徒に計算させた数値を代入して、最適な因子の組み合わせを出せばいい。

 

「樹脂2、種油8。湿り気は紙がたるむ程度……」

 

実験の過程でできるだけ定量化を心がけた。計量用の秤も作った。山ほどの条件から、適切な配分を見つけ出す。職人のカンなんかに頼らないようにしないといけない。

 

「……これで、どう?」

 

刷り上がったものをケトに見せる。

 

「今までのと、何が違うんです?」

 

「ならいい。これで終わりだ」

 

そう。ケトの目でも違いがわからないということは、いくつかの条件が変わっても同じ結果を得ることができたということだ。

 

「さて、一旦全部解体して、組み立て直して、あとはケトくん、君だけでやってもらうよ」

 

「わかりました。やっとですね」

 

まあ今までの私の作業を結構しっかり見ていたケトならある程度はできてしまうだろうが、重要な部分については触らせなかったのでいいテストになるだろう。言葉としては伝えてあるけれども、それでどこまでうまくいくか。

 

「そう。これできみが私と同じように刷れるなら、ひとまずこれは完成したと言っていいと思うよ」

 

「誰でも使える、ということですか」

 

「そう。それが一番重要だから」

 

私は自分の黒ずんだ手を見て、呟くように言った。春分は五日後だった。

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