図書庫の城邦と異哲の女史   作:小沼高希

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語順

ケトは喉に手を当てて、咳払いをするように軽く息を吐く。

 

「『これは████*1』、『これは匙です』」

 

ケトの手の中にはさっきの食事で使ったのと同じような木の匙があった。そして声がいい。よく通る、落ち着いた口調だ。それに二つの文章を連続して、かつ明らかに語気や声色を変えて言っている。このレベルでの演じ分けは話芸をやっていないと難しいように思う。ケトがそういう訓練を特別に積んでいるのか、あるいはこういう演じ分けが日常的に求められる文化などがあるのかはわからないが。わざわざ文を分けて、発言者を違うものとして扱ったのは対話文を説明したいからだろう。仮説を立てたら、検証だ。ケトの手の方を指差して、私は口を開く。

 

これは何ですか?

 

一息おいて、少年は返事をした。

 

「これは匙です」

 

少年は笑顔になる。よし、つまりこれは正しい疑問文だろう。私が今までやってきたのはたぶん幼稚な聞き方だったのだろうなと考えると恥ずかしくなるが、言語学習においてこういうことが起こるのは仕方がないと割り切ってしまおう。

 

「『あれは何ですか?』『あれは壁です』」

 

「これ」と「あれ」を変えただけだ。問題ない。

 

「あれは何ですか?」

 

少年は寝台を指差して言う。ええと、さっき使った単語だよな。少し忘れかけている。

 

これは寝台です

 

「████ ███*2

 

意味はたぶん正解とかそういうところだろう。

 

「『████ これ ████████ 布*3』、『これは緑色の布です』」

 

そう言って、少年は私を不安そうに見る。あまりそういう視線を向けられると私の中の嗜虐心が引っかかれかねないのだが。もう少し自分の魅力を理解するべきだよな、と余計なことを考えながら私は分析を行う。わざわざ長い文章を言ったということは、それなりに重要なものなのだろう。アクセントが最後から二番目の単語に強めにかかっていたところを考えると、そこが意味として大切なのだろうか。先ほどの流れで言うと、おそらく正しい疑問文を私に教えようとしている。前にやった修飾詞を入れるべきところを開けるのではなく、きちんとした文章としての質問方法を。

 


 

「私」「食べる」「りんご」を意味する三つの単語を使って単純な文章を作ることを考えよう。ただし、りんごは私を食べないものとする。日本語であれば「私はりんごを食べる」となる。英語は「I eat an apple.」、ドイツ語なら「Ich esse einen Apfel.」だ。ここで英語やドイツ語において単数不定冠詞がついてりんごが一つであるという情報が付加されているのはあまり重要なことではない。

 

英語とドイツ語は「私」「食べる」「りんご」の順番で単語を並べている。高校で受験英文法を齧った人間向けに言うのであれば、英語は主語(Subject)-動詞(Verb)-目的語(Object)のSVO型の言語であると言える。なおドイツ語は本質的に日本語と同じ主語(Subject)-目的語(Object)-動詞(Verb)のSOV型で、V2語順なるルールを適応することで一見SVO型に見えるという説明を聞いたときに私は女子大生があまり外で言うべきではないタイプの悪態をついた。

 

こういう文章の並びを語順というのだが、この語順がいい加減な言語もある。例えばラテン語。もちろん一般的な語順というのはあるが、別にそれを無視して単語をごちゃごちゃに並べ替えても問題はない。無理矢理に日本語で例えるのであれば「私は食べる」「りんごを」と単語一つの中に品詞を意味する要素を組み込んでいるのだ。これを屈折語という。一方英語はこういう語順を無視できない程度に単語内の品詞を示す要素が古英語に比べて削られている。これがもっと進んで、単語だけでは品詞が完全にわからなくなった場合には孤立語と呼ばれる。日本語はひどく雑に言えばその「中間」にあたる膠着語で、単語の前後を変えることで意味を付加できる。

 

屈折語は単語一つの中に品詞の情報を持たせなくてはいけないので、活用表が複雑になる。例えば日本語では「食べる」は「食べ」「食べる」「食べれ」「食べろ」のような形になるが、ラテン語の動詞「edo(私は今食べる)」は「edis(あなたは今食べる)」、「editis(あなたたちは今食べる)」、「edetis(あなたたちは将来食べる)」、「edemini(あなたたちは将来食べさせられる)」と変化する。もちろんこれはほんの一部だ。英語のように三人称単数現在形のときだけsがつくなんて優しいものではない。ラテン語の活用表はまさに「表」と呼ぶのにふさわしい。

 

人間はどんな無茶苦茶な文法であっても生まれたときから接していれば学んでしまうことができる。ただ、新しく学ぶとなると話は別だ。活用表を暗記するよりも、語順に制約をかけて単語の並び順で品詞を意味したほうがコミュニケーションの面ではメリットが大きい。そしてここからがやっと本題だ。少年が話している言語は、おそらく孤立語に近い。非常に雑に言うのであれば、少年が使っている言語は複数の言語との接触を経験している可能性がある。ともかく単語を一度覚えてしまえば比較的容易に使い回すことができ、単語の並びさえ変えなければ簡単に新しい意味を持った文章が作れるのだ。

 


 

文法の流れがわかれば、後は例外を覚えていくだけだ。ドイツ語の件があるのであまり自分の判断力を信じることはできないが。

 

これはどのような匙ですか

 

「この匙は茶色で、████████*4

 

後半部分は新しい形容表現だろう。少年は私に色々教えたいようだ。さて、と私は悪い笑顔を浮かべる。

 

何が████████か?*5

 

文法からすればたぶんこの文章は成立するはず、と思って少年の顔を見ると一瞬驚いたような顔をした後、少し楽しそうに、悪い笑顔を浮かべた。

 

「あの寝台は木でできています。この███████ █████木でできています*6

 

匙と、寝台と、少年の手の中にある小さな用途不明の彫刻の共通点。色は濃い茶色から白に近いものまで様々だが、どれも木製だった。

*1
これは何ですか?

*2
そのとおりです

*3
これはどのような布ですか

*4
この匙は茶色で、木でできています

*5
何が木でできていますか?

*6
この像も木でできています

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