紀元前1000年頃のアナトリア半島であれば、電池を作れるだけの技術が揃っていただろう。電極に使う鉄と銅、そして電解液として酢でも塩水でもいいが、ともかくそういうもの。事実、与太話の域を出るものではないがバグダード近郊から発掘された壺が紀元前に作られ、電池としての機能を持っていたのではないかという仮説を立てた人もいる。その後の研究でそもそも作られた時期がおかしいんじゃないかとか構造的にすぐ使えなくなるだろうとか用途がはっきりしていませんよねとかただの保存用容器なのではとボコボコにされてしまったが。
で、そこから電池ができるまで3000年。アレッサンドロ・ヴォルタが1800年頃に亜鉛板と銀板と塩水を浸した布を
「……キイさん?」
「ああ、はい」
眼の前の哀れな少年に意識を戻す。舌のしびれは取れたようだ。
「で、何に使うんだ?」
「そうですね、例えば水を二つの基質に分解できます」
トゥー嬢の言葉に、私は軽く答える。
「……待て」
「はい」
あっやっべ。やらかした。水素と酸素から水を作るような実験には放電が、つまりは静電気の制御が必要だ。アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエが水は単体ではないと言ったのは18世紀後半。電池はなくとも科学者は静電気の扱いについてかなりの知識を持っていた時代だ。
「水は、基質ではない?」
「……はい」
この世界の薬学における基質は、元素の一歩手前ぐらいの概念だ。複数の物質に見られる共通の特徴をそれの物質が含む共通の「基質」に由来させる考え方。
「ああ、なるほど。そういうことなら、面白い解釈ができそうだな」
そう言う彼女に、私とケトは首を捻った。
「酸を金属質のものと反応させると泡が発生するが、焼土質のものと反応させても泡は発生せずに溶ける。ただ、両方とも新しい物質ができるという点では似ている」
トゥー嬢は資料を前にして言う。焼土質というのは加熱した石灰石や苦土石から得られる物質のことだ。私の知識で言うなら$\require{mhchem}\overset{酸化カルシウム}{\ce{CaO}}$や$\overset{酸化マグネシウム}{\ce{MgO}}$と呼ぶべきもの、つまりはアルカリ土類金属の酸化物。金属質というのは普通に単体の金属でいい。
「薬学師が直面する問題の一つは、この泡だ。この基質は金属質のものにすでに含まれていたのか?それとも酸に含まれていたのか?」
「酸に含まれていたら、焼土質との反応でも出るはずですよね」
そう言うケトに、トゥー嬢は頷く。
「ああ、事実加熱する前の石灰石や苦土石との反応では泡が出る」
あっそれ別の種類の気体なんですよ。金属と酸の反応で生まれるのは水素で、石灰石や苦土石のような炭酸塩と酸の反応で生まれるのは二酸化炭素。まあまだ黙っておこう。
「ただ煆焼、つまり加熱することによって泡の基質が抜けたと考えると、それより高温にさらされているはずの金属質に泡の基質が残っていることと説明がつかない」
そう。この問題はその考え方では解けない。
「水が二つの基質に分かれると言ったな?」
トゥー嬢は私の方へ視線を向ける。
「ええ」
「それを第一基質と第二基質と置こう。第一基質は泡として出るもので、第二基質は焼土質に含まれる基質だとしたら?」
「……まだ、わからないです」
ケトの言葉に彼女は少し焦るように手を動かす。いいなぁ。発想が言語化される過程は見ていていい。
「本来酸との反応では、常に第一基質が発生するはずなら?ただ、ここで金属質には含まれず、焼土質に含まれる第二基質が同時に存在すれば?」
「……基質同士が反応して、水ができる」
「そうやってできた水は、酸に含まれているものと区別がつかない。だから泡が発生しないように見える」
「となると、第二基質というのは煆灰質ですか!」
煆灰質というのは金属を焼いた際にできる金属灰や、多くの鉱石に含まれるような基質のことだ。私の知ってる言葉なら、それは酸素と言う。
「そう、となれば今まで単一基質と言われていた焼土質は、本質的には金属質と煆灰質の結合物とならないか?」
「おおお!」
興奮するケトとトゥー嬢。私?正直なところ、怖い。仮説の積み上げは危ういが、私の知識にある最初期の化学と同じ結論が導かれている。どうしてこうなっているんだ?アルカリ土類金属の単体分離は電気分解で行われたんだぞ?
「……キイ嬢、私の意見は正しいか?」
「私が答えてしまっては、意味がないのでは?」
彼女の質問に、私はあくまで冷静に答える。自分の声が震えている気もするが。
「……確かにそうだ。証明にはならない。だが、その反応からすると間違ってはいなさそうだな」
トゥー嬢は楽しそうに、呟くように言った。