適切な絶縁皮膜の製法を手にした。ジエチルエーテルを溶媒として混ぜてあげるとなぜかうまくいったのだ。理由は知らない。そもそもこんなことはかつての世界の本にも載っていなかった。成長がある。
そういうわけで次のステップのために、私はいつもの工房に訪れていた。
「……また変なものを注文するな」
馴染みになってしまった工師は私が紙に描いたスケッチを睨む。
「ええまあ、できますか?」
私がそう言うと彼は眉をぴくりと動かした。おっと、あまりよろしくないことをしてしまった。職人の自尊心に訴えるのはマネジメントの一手法だが、乱用すると信用がなくなる。
「問題ない。それと、銅線についてそれなりの長さを作っているがいいのか?」
「まあ、色々使うので」
「ならいいが。使う材料の量自体はそこまででもないが、手間がかかるからな」
小さな穴の空いた
部屋の中に、金属を小刻みに叩く音が響く。
「すごいでしょ!」
このうるささにもう慣れたらしきケトとトゥー嬢に、私は苦心して作った装置を見せた。
「そう……ですか?」
呟くのはケト。
「何が凄いのか、全くわからない」
言い切るのはトゥー嬢。
私は息を吐いて目を閉じ、ふてくされて後ろに身体を倒した。
電磁気学をやっている人間で、マクスウェルの電磁方程式を知らないやつはいないだろう。1865年にジェームズ・クラーク・マクスウェルが教科書に乗せた式がいろいろな形で改良されて使われているものだ。ここらへんの歴史をやろうとすると四元数というイカした概念に触れる必要があって厄介である。これは虚数の$i$に満足できなくなったウィリアム・ローワン・ハミルトンがおまけで$j$と$k$も足して作ったもの。数学史的にはこのあたりから数学の抽象的操作としての側面が強くなっていく。
電磁方程式は四つの偏微分方程式で表せる。具体的にはこう。
$$\mathrm{div}\mathbf{D} = \rho$$
$$\mathrm{div}\mathbf{B} = 0$$
$$\mathrm{rot}\mathbf{E} = - \frac{\partial \mathbf{B}}{\partial t}$$
$$\mathrm{rot}\mathbf{H} = i + \frac{\partial \mathbf{D}}{\partial t} $$
まあ、これは実際に起こる物理現象を数学語ベクトル微分方言で書き表したものだ。日本語訳すると上から「電荷は電界を生む」「磁気単極子は存在せず、磁力線は閉じる」「磁界の変化は電界を生む」「電流と変位電流は磁界を生む」といったところだ。あまりわかりやすくなってないな。まあ具体的な用語の意味を説明すると怪しいので適当にごまかしておこう。
で、今回使っているのは4番目、「電流と変位電流は磁界を生む」というもの。いわゆるアンペールの法則の拡張。簡単に言えば、電磁石だ。電流を流した電線のまわりには磁界ができる。いい感じに電線の形を弄ってやれば、強い磁界を作り出せる。これは別に数学的知識がなくても試行錯誤で見つけることは可能だ。ではなぜマクスウェルの電磁方程式を出したかって?かっこいいから。小学5年生で私はこれを暗記した。人間若いときにはいろいろやらかすのだ。
作った装置の構造は簡単だ。鉄心に巻いた絶縁皮膜つき銅線で、回路に組み込まれた鉄製の金具を引き寄せる。金具は引き寄せられると回路が切れるような仕組みがある。そうすると電磁石に引かれなくなった金具は元の場所に戻り、回路がまたつながる。あとはぴこぴこ動くことになる金具の動く先にいい感じに音が鳴るなにかを置けば断続的に音が鳴る。これが
「つまりは、痺因を運動に変換できるのか」
「まあ、そういうこと」
トゥー嬢の言葉に私は頷き、少し気になったことを聞く。
「逆に、運動を痺因に変換できる可能性があると思わないかい?」
少し悩むような表情をするトゥー嬢。
「……いや、そういう発想はさすがに出てこなかったな」
「はい」
まあうん、そうだよな。ハンス・クリスティアン・エルステッドが銅線の近くに置いた磁針が触れたのを発見してから電磁誘導が発見されるには10年かかった。案外こういう発想は後から見ればそれらしいが当時を生きていた人たちには難しいのだ。後知恵バイアスの一種である。
「……待って下さい。運動を痺因に変換できるなら、あれは消耗品ではなくなるんですか?」
ケトが口を開いて、金属と塩水で湿らせた紙の
「それなら助かるな。基質の分解には今のところ手間がかなりかかる。というより、そのためにこれを?」
「いいや?」
質問をしたトゥー嬢に私は返す。
「文字版を作りたいから安定した痺因を作りたい」
「ちゃんと説明しましょうね」
ケトに怒られてしまった。
「だって説明に使える言葉も少ないし実物を見せたほうがいいだろうし……」
「……では、まず安全な範囲で見せてください」
「わかった」
私はそう言ったが、次の作業では思いっきり火花が飛ぶことを忘れていた。