「ここは私の父が作らせたものでね」
そう言いながら、薬学師のトゥー嬢は水車を見上げた。私の背丈の6倍と言ったところか。城壁よりも高い、回転する木の機構。水車だ。効率の良いとはいえない下掛水車だが、そもそもの目的が揚水なので仕方がないだろう。
「良くできていますね」
これは彼女の「所有物」らしい。父親から受け継いだ遺産の一つだとか。図書庫の城邦はこのインフラ設備に対してそこそこの金額、具体的には彼女が化学薬品や機材をあまり躊躇なく買えるほどの銀片を利用料として払っている。なるほど、豊かなわけだ。
「私にはそこまでわからんがな」
呟くトゥー嬢。パーツの規格化が行われていて、どこかが壊れても交換が容易なようになっている。とはいえこれは職人の工夫と言える範囲だろう。水車についたカップが上の方に水を持ち上げて水路に流すようになっている、というわけか。
「確かに、これならあなたの父が恐れられたのもわかります」
この図書庫の城邦は、私の知っているいくつかの古代都市と同程度に清潔だった。上水道と下水道があり、直接飲むことはあまり推奨されていないが水には困らない。工匠区でも水が必要とされる製紙や染色を確かに見ていた。さすがに気がつくべきだったな。自分の観察力が愚かしい。
「これから回転を得られないか?」
少し得意げにトゥー嬢は言う。
「できるでしょうね、ただこの方式の水車よりも上から水を流すほうが効率がいいのは知っていますか?」
「それはそうだろうな。実際、そういう場所に工房を持っている工匠もいる」
「痺因は金属の線を伝わって遠くまで運ぶことができるんですよ」
「つまり、あの仕組を遠くの急な滝で動かし、ここまで運べばいいと?」
反応が早い。こういう人と話していると楽だが、あまり慣れ過ぎるのも良くないな。
「壮大な計画になりますがね」
「ふむ……」
彼女は考え込み始めてしまった。っと、今のうちにケトに聞いておきたいことがあったのだ。
「ところでケトくん」
「なんでしょう」
「私の作った痺因を作るやつ、なんて呼ぶべきだと思う?」
「普通に『痺れさせるもの』とかではだめですか?」
「もう少しいい感じのが欲しい。できれば、そういうものの総称も」
「そういうって……どのくらいものを含めばいいですか?」
「できれば搾油機を作り直したあれのようなものも含めたい」
「……となると、この水車*1もですか?」
そう言ってケトは改めて水車を見上げる。うーん、私の知る「機械」とか「装置」とかいった概念に入るかどうか少し微妙だな。
「そこは入れても入れなくてもいいかな。ただ入れるとしたら『人が本来できることを、様々な力や工夫によって行うもの』とか?」
「仕組、というのも少し微妙か……機構?うーん……」
かわいいうめき声をケトは上げてしまった。まあこれは私にはできないので。
実際に発電機を設置するのには一週間ほどかかった。正直言って、非常に速い。ここの整備を担当している工師が全部やってくれたと言えば聞こえは良いが、滅多に顔を出さないオーナーから変な注文をされる担当者もそれはそれで大変だろうなと私は変に同情してしまう。
結果として水車の軸の回転運動を皮製のベルトで発電機の方に伝えて回すという形になった。硬木による軸受がつくというかなりしっかりしたものである。まあ高さがうまく合わなかったので発電機の下には台を置いてどうにかしているのだが。マニュアル車のクラッチのように必要であれば発電機と台を動かすことで回転から切り離せるようにもなっている。この中心軸合わせがかなり面倒そうだが、まあ多少は継手が誤魔化してくれるだろう。
「で、これで作れるのか?」
「たぶん」
銅線を換気の良いところまで伸ばして、装置を組み立てる。まず食塩水を電気分解し、水上置換法で塩素を回収する。そこから鉛で内張りした箱の中で鉱物を加熱する。これはたぶん黄鉄鉱、主成分は$\require{mhchem}\overset{二硫化鉄}{\ce{FeS2}}$。それで出た二酸化硫黄と活性炭触媒で反応させることで塩化スルフリルの完成だ。化学反応式はこう。
$$\ce{2NaCl + 2H2O -> Cl2 + H2 + 2NaOH}$$
$$\ce{2FeS2 + 7O2 -> 4SO2 + 2Fe2O3}$$
$$\ce{SO2 + Cl2 -> SO2Cl2}$$
よし。で、あとはこれをまとめればいい。
$$\ce{8NaCl + 8H2O + 2FeS2 + 7O2 -> 4SO2Cl2 + 4H2 + 8NaOH + 2Fe2O3}$$
となるはず。幸いにも面倒な反応量の計算をそこまで必要としないのが救いだ。副産物は水素、水酸化ナトリウム、酸化鉄(III)。まあ水素はなんなら燃やしてしまえばいいし、水酸化ナトリウムは強塩基として実験に使える。製紙に試すのもいいかも。酸化鉄(III)は、あれだ、錆。染料や研磨剤に使われはするが、わざわざ作るほどのものでもない。こんなもんかな。
もちろん得られた塩素を濃硫酸を通して脱水したりだとか不純物を取り除くために蒸留したりだとか色々と手間はかかる。それでも一日トゥー嬢と一緒に取り組んだ結果、すこし黄色みがかった液体を手に入れることができた。
なおその頃のケトは字引を漁っていい感じの言葉を選んでくれていた。私たちの会話を聞くと脳が焼けるらしい。